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日野光治

Author:日野光治
馬鹿と煙は高い所に登る。
しかし高い所に登らなきゃ見えない景色もある。
政治だって『庶民の目線』なんてのがもてはやされてるけど、そういう低い位置からだけしか見ていなければ道を誤る。
ということで、馬鹿は馬鹿なりに今日も好き勝手に政治放談したり山歩きをしてみたりと、気ままに生きてます。

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放射線について考える(0) 本論に入る前に

さて、書くと宣言してからだいぶ経ってしまったが、放射線についての話題である。

東日本大震災に伴う福島第一原発事故以降、各地で放射線についての講演会が開かれている。
しかしその講師を見てみると、放射性廃棄物の処分場について研究している工学部の教授に放射線の人体への影響という生物学的な話をさせているなんて例もあった。一般の人から見ればこの講師も『専門家』ということになるのだろう。
まぁ、放射線とまったく関係ない分野ではないのだから、普通の人よりは詳しく説明はできるだろが、あくまでも工学の専門家であって生物学・医学の専門家ではあるまい。
私などは「専門外の話をさせられてご苦労なことです」と同情的な目を向けてしまうのであるが、各地で開かれている講演会の、いわゆる専門家なんてこんなものだろう。下手をすると、文系大学を出た後ずっと文系の仕事をしてきたけれどもずっと反原発運動をしてきたってだけの者が専門家面して講演しているなんてこともあるかもしれない。そんな似非専門家が偉そうに講演できるのであれば、私でも個人のブログで解説するくらいのことは許されるだろう。



さて、放射線について書き始める前に、理解しておくべき基礎的な事柄についても触れておくべきだろう。




まずは癌のメカニズムである。よく放射線を浴びると癌になると言われているが、そもそも癌というのがどういうものかがわからなければ仕方があるまい。


人体というのは約60兆個の細胞によって構成されている。この60兆個の細胞は、その人が生まれてから死ぬまでずっと同じというわけではなく、細胞分裂によって新しい細胞が生み出され、古い細胞は垢や便として排出されている。

さて、細胞分裂というのは、もとの細胞から新しい細胞に遺伝情報をコピーするということである。しかし体内各所で膨大な数のコピーが行われているわけだから、コピーミスも一定の確率で生じてしまう。このコピーミスは大体1日に数万回程度起きるとされている。
しかし生命というのはうまくできているもので、このコピーミスに対する自動修復機能というのがあるのだ。コピーミスを検知すると、その破損データを修復して正しい遺伝情報を新しい細胞に送れるようになっているのだ。

しかし、遺伝情報の中でもその自動修復に関する部分のデータが破損してしまうこともあるし、検知漏れや修正漏れも一定の確率で起こり得る。その結果、1日に数百個程度異常な細胞ができているとされている。これが癌細胞である。

ところがここでもうまくできていて、そうしてできた癌細胞を専門的に攻撃する免疫機構が備わっている。また免疫機構の攻撃をすり抜けられたとしても、新しい細胞を作り出す機能が失われていて、そのまま寿命で死ぬ細胞もある。その結果、ほとんどの癌細胞は死滅する。

しかしまれに免疫機構の攻撃をすり抜け、かつ増殖してしまう癌細胞が出てくる。この増殖してしまったものが『癌』である。


このように人体には癌を防ぐメカニズムが組み込まれている。それでも癌になるにはそれなりの原因がなければならないのである。
例えば年をとったり病気になったりした時は免疫力が落ちてくるから癌細胞を駆逐しそこなう可能性は高まるだろうし、遺伝情報のコピーミスが『著しく』多くなれば処理能力オーバーで癌になる可能性も高まるだろう。
放射線というのは、この遺伝情報のコピーミスを増加させる一つの要因ということである。あくまでもいくつもある要因のうちの一つ。煙草もアルコールも肉や魚の焦げも遺伝情報コピーミスを増加させる。





次に化学の問題。

よく大量の放射性物質がまき散らされたという表現が使われる。もちろんそれ自体は間違ってはいない。確かに大量の放射性物質がまき散らされてはいる。しかしその表現によって一般の人が受ける印象と現実は大きく乖離しているように思う。

まず、ベクレルという単位。これは一秒間に放射線を出した原子の数ということである。10万ベクレルといった場合は1秒間に10万個の原子が放射線を出して別の原子に変化したということである。
しかし化学の世界では原子の個数をそのまま数えるなんてことは普通はしない。普通はモルという単位で考える。

このモルというのはその物質の原子量(あるいは分子量)の数字にグラムをつけた重さの中に含まれる原子(あるいは分子)の数の単位である。
例えばセシウム137が137グラムあった時のセシウム137原子の数である。あるいは水(H2O)18グラムがあった時の水分子の数である。
1モルの中の原子(分子)の数はどんな物質でも同じ(そうでなければ単位として役に立たない)で、その数は約6.02×10の23乗である。10の23乗なんて言ってもピンとこない方もいるだろうから言いかえると一兆の一千億倍ということである。

つまり放出された放射性物質がすべてセシウム137であったとした場合、六千億テラベクレルあって(テラは一兆倍の意)やっと137グラムのセシウム137が放射線を放出して別の原子に変わったことになる。
ちなみに今回の事故で空気中に放出された放射性物質は57万テラベクレルとされている。

もちろんこれは1秒間に放射線を出した原子の数であって、実際には放射線をまだ出していない原子も多数残っている。

例えば土壌1kgに10万ベクレル含まれているとしよう。1キロ当たり10万ベクレルと言ったらかなり濃度の高い汚染土である。
セシウム137の半減期は30年。30年後には何もしなくても5万ベクレルになっているはずである。この減少の度合いの関数を積分すれば30年間に放射線を出した原子の数がわかるし、その数を2倍にすれば減少する前のセシウム137の原子の数がわかる。

まぁ積分なんて言うとわかりにくいので、思いっきり簡略化して考えよう。
縦軸にベクレル、横軸に経過時間のグラフを考える。このグラフの曲線と経過時間0秒から30年の範囲で囲まれた部分の面積を求めようというのが積分だと思っていただきたい。
グラフでは減少の度合いは曲線になっているが、面倒くさいので直線として考える。そうすると長辺10万短辺5万の台形の面積を求めればよいことになる。台形の面積の求め方は(上辺+底辺)×高さ÷2である。
この高さに経過時間を代入する。面倒ではあるがベクレルが1秒あたりの数なので経過時間も秒で計算する。30年=60×60×24×365×30=9億4608万秒。
台形の面積の求め方では2で割らなければならないが、総数を求める際に2倍にするのだから15万×9億4608万だけ計算すればよい。
答えは約142兆個ということになる。約42億分の1モルである。重さで言うと約32ナノグラム。ナノとは10億分の1のことである。別のもので例えると杉花粉2.5個分の重さである。
かなりの濃度の汚染土であっても、1kgの土に含まれているセシウム137の重さはたったこれだけなのである。計算間違いしてないよな?

なお、ベクレルからグラムへの換算式というのは、上記のような大雑把でいい加減な計算ではなく、きちんとあるので、興味のある人は調べてみるとよい。ここではあくまでも理系ではなくても理解できるようわかりやすさを重視した説明にした。

ベクレルでの数値と重さでの数値では全く受ける印象が異なるだろう。もちろん重さによって過小評価して良いわけではない。しかし国民の無知に付け込んで過大な印象を植え付け、不安をあおることは許されるべきではない。





ついでだからもうすこし。

毎年春になると中国から黄砂が飛んでくる。
この黄砂というのが曲者で、過去に行われた中国の核実験の残滓が黄砂にまとわりついて一緒に飛んでくるのだ。だから春になるとわずかながら空間線量が増えるのだ。これは過去のデータから明らかである。
この増加について「福島原発がまた放射能を放出したのに政府や東京電力が隠しているんだ」などということを言い出す輩が必ずいると思う。こういうことを言い出すのは日本を貶めることに生きがいを感じている連中か、そのデマに騙されるような無知な人間だと思う。

こういうことを言うと、「中国という遠距離から放射性物質が飛ばされてくるのなら、福島で新たな事故が起きなくてもすでに堆積している放射性物質が飛散することもあるのではないか」という反論をする人も出てくるだろう。

それは絶対ないとはいえないものの、無視してもかまわないレベルの少量の飛散しかないと言える。

まずセシウム137は一度土壌に吸着されてしまうとその土と一緒にしか移動しない。原発から放出されたばかりのときのようにセシウムの蒸気として拡散するのとはわけが違う。では土壌に吸着されたセシウム137はどの程度土ぼこりとともに移動するか。

黄砂というのは中国の砂漠から飛んでくるもの。つまり乾燥して砂ぼこりが舞い上がりやすい環境の広い土地があればこそ、日本に届くほどの上空まで巻き上げられるわけである。

しかし日本ではそうではない。舗装されている部分から舞い上がる土ぼこりはたかが知れているし、舗装されていない部分も多雨多湿の日本においては土が湿っていて土ぼこりは上がりにくい。雨の少ない季節であったとしても農作物や雑草などに邪魔されてやはり土ぼこりの飛散は抑えられる。中国の砂漠のような土ぼこりが大量に巻き上げられるような環境が広範囲に広がっているわけではないのだ。

したがって春に空間線量が上がったとしても、それは福島由来とは考えにくいのだ。

日々の線量変化に注意を払うのは無駄とは言わないが、その放射線の出所を確認することもなく大騒ぎするのは有害以外の何物でもない。
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東海地方などで梅雨明け

中国・四国・近畿・東海で梅雨が明けたようである。

私にとっては、いよいよ富士登山の季節に入ったという感じである。
梅雨明けから十日間くらいが天候が安定しやすいとも言われているし、富士山は子供たちが夏休みに入るころから特に混むから、混む前の天候の安定した時期に登ってしまおう。
まぁ、ほぼ予想通りであり予定通りである。
登山道も山梨県側は山開きの日から全面開通しているし、御殿場口が9日、富士宮口が14日には全面開通する予定だという。この面でも心配はなかろう。


さて今回書きたいのはそんな私の予定のことではなく、この梅雨明けそのものについてである。
私は『予想通り』と書いたが、中国、近畿、東海は平年より13日、四国は10日早い梅雨明けということになっている。

連日の猛暑で、猛暑であった昨年の同時期よりも熱中症患者が多いことや、梅雨入りも二週間ほど早かったことなどと合わせて、『温暖化』のせいだとほざく連中が必ず出てくるだろうと思う。

しかし梅雨入りも梅雨明けも別に早いなんてことはないだろうというのが私の見解である。


以前にも書いたことがあったかと思うが、気候に関しては新暦よりも旧暦のほうが実態に則している場合が多い。ではたとえば旧暦で言うと新暦の7月8日というのは何日に相当するのであろうか。

今年の場合、今日は旧暦6月8日である。昨年であれば5月27日、一昨年なら5月16日である。
6月の旧称は水無月であるが、旧暦6月というのは梅雨が明け、渇水期に向かいころであるから水が無い月なわけである。
つまり今年の場合は旧暦では水無月に入っているが昨年や一昨年は、新暦の今頃はまだ水無月に入っていないのである。ちなみにやはり旧暦水無月に入るのが早かった一昨々年(新暦7月8日は旧暦6月5日)も梅雨入りは早かったはず。この年は梅雨明けは早くはなかったのであるが、むしろ今年のほうが暦に沿っているように感じる。

とにかく梅雨入り・梅雨明けは早かったように見えるだけで実際には早いなんてほどではないというところであろう。

もしこの梅雨入り・梅雨明けの早さを温暖化と結び付けるような言説を見かけたら眉に唾をつけることをお勧めする。

環境省を解体せよ!!

少々時間が経ってしまったが、先日、環境省がまた妙なことを言い出した。
曰く超クールビズ。

・・・アホか?

クールビズ自体が胡散臭いものであることは以前にも書いたが、今回はさらにひどい。
何とジーパンもOKらしい。
クールビズというのは風通しの良い涼しい服装をすることによって冷房の設定温度を上げようという試みではなかったのか?ジーンズが涼しいわけないだろう。いったいその辺についてどう説明するつもりなのだろうか?

確かに涼感ジーンズというものはある。素材によっては普通のジーンズよりかは涼しくすることは可能ではあろうが、それがジーンズである以上は風通しがよくはならないだろう。織り方から変えてしまったらジーンズとは呼べないだろうから。普通のジーンズと比較しての相対的な涼しさではなく、さまざまな服装と比較しての絶対的な涼しさでなければ、高く設定された冷房温度に耐えられないだろう。

結局今回の超クールビズなるものは涼しい恰好をすることを目的としているようには全く見えないのである。

今回の超クールビズはあくまでも環境省内での取り組みであり、社会全体に推奨しているものではないとはいえ、こんなでたらめなものを恥ずかしげもなく出してしまえる神経がわからない。



さらに言えば、仮に本当に涼しい服装をしたところで、それを持って冷房を弱めて節電を心がけるという発想は、今の日本にとっては危険ですらあるのではなかろうか?
確かに涼しい服装をすれば比較的高い室温でも人間は我慢できるようにはなるだろう。それを持って、例年なら冷房設定温度を28度にすることが推奨されているところを30度にしようという動きすらあるらしい。
しかし以前に指摘したことであるが、現代のオフィスの中心は人間ではなく、熱に弱いコンピューターなのだ。人間が我慢できるからといって安易に冷房温度を高く設定しコンピューターが熱暴走で止まったらどうするのだろうか?
こういう考えれば当たり前のことを考えないのが今の日本人であろう。節電で冷房を弱めようといえば人間の快適さを考えるだけで満足してしまう。そういう中途半端な考え方がもたらす害悪など想像すらしない。
一見良さそうなことを言われると、それしか見ないで一直線。それで不具合が出ると反動で逆方向に一直線。まぁ、今回行き過ぎた節電のために熱暴走でコンピューターが止まり、日本経済が混乱したところで、電気が足りない以上「冷房はガンガン効かせよう!」とはならないだろうが…。
もうちょっとバランス感覚を養おうよ、日本人。



環境省といえば何やら環境に良い政策を実施する官庁であるかのように見える。しかし、本当のところ何が環境に良いかということは分かっていない部分が多い。それだけでも環境省という独立官庁の必要性に疑問を投げかけるのに十分であろう。
しかし、その上さらに環境とは関係ない施策を、さも環境に関係あるかのように装い左翼の広告塔として活動するしか能がないのであれば、そんな官庁は必要ない。というか役に立つたたないではなくはっきり有害である。
環境省は即刻解体し、環境庁に戻し、他の官庁の指揮下に置くべきである。

打ち水

大暑である。快晴が続き気温がどんどん高くなる時期。毎年この時期になると「打ち水大作戦」(http://uchimizu.jp/2010/)なるイベントも始まる。

打ち水をすると、それが蒸発するときに気化熱を奪っていくために気温が下がるという理屈だと説明されている。

まぁ、間違ってはいないと思う。少なくともクールビズの効用よりもよほど説得力はある。でもなんか胡散臭く感じてしまうのは、数年前に『銀座千人涼風計画』なる打ち水イベントに参加した時の経験によるものだろう。

歩行者天国で車の止まった銀座中央通りに水をぶちまけて気温を下げようってイベント。あらかじめ3・4か所ほどで気温が測定されていて、水をまいたことによりどれだけ気温が下がったかイベント参加者の前で公表されるという趣向であった。

しかし、実際のところ、気温はそれほど下がらなかったのである。測定場所それぞれで、道路の表面温度は下がっていたが、気温は変わらないか、せいぜい0.5度しか下がらなかったのである。まぁそうだろう。舗装された道路に水をまいたって蒸発する前に雨水路に流れて行ってしまうだろう。
会場では司会者も「0.5度しか下がりませんでしたが水をまいてる最中に風が吹きました。この風は皆さんが吹かせたのだと思います。」と、きれいにまとめようとしていた。
そんなかっこつける必要ないのに。本当に気化熱で気温を下げようと思ったら、打ち水という形で地面に水をまくより、噴霧器で空中散布した方が効率的。水をまいただけで0.5度でも下がれば十分成功であろう。

ところが後日掲載された結果報告では、なんと1.5度下がったことにされていたのだ。同一箇所での測定結果比較では0.5度しか下がっていなかったわけだから、数か所あった気温の測定場所の中から、もともと気温が高かった場所の水まき前測定結果と、もともと気温が低かった場所の水まき後測定結果を組み合わせたのだろう。あるいは架空の数値をでっち上げたのか。
これは実際に参加した者を馬鹿にした行為であり、関心を持ってくれている人を欺く行為である。

自分たちのやってることにやましいところがなければ、こんなごまかしをする必要などないのではなかろうか。やましいというのは言いすぎであるにせよ、目的を見失っているとは言えよう。目的を見失って本来の目的から離れちゃうと、ろくなことにはならないと思うんだよね。

打ち水自体に悪いことはない。まぁ元々打ち水ってのは気温を下げるためというよりも埃が立たないようにするってことに主眼が置かれていたようなものであるし、気温も下がれば儲けもの程度に考えてやる分には大いに結構。残り水をただ捨てるよりはマシではあろう。
しかしこの何の問題のない「打ち水」が「打ち水運動」になるとねぇ…。
要するに暮らしの知恵としてやってるんじゃなくて環境問題としてやってるのが問題なのだろう。CO2排出量を減らすためにはクーラーを控えなければならないし、そのためには打ち水で気温が2度下がらなければいけないって発想なわけでしょ。そのうえ、打ち水ごときで「自分は環境に優しいことをしてるんだ」なんて自己満足に浸りたいだけだったりするわけでしょ。もうウンザリ。


ということで、私は打ち水大作戦などの運動とは無関係に、埃対策として水を撒こうと思う。夏に限らずにね。

クールビズの怪しさ

衣替えの季節となり、新聞の政府広報の広告でもクールビズが勧められ、閣議がかりゆし着用で行われたことが新聞記事になったりしている。

しかし、このクールビズなるものが出てきてからだいぶたつが、何年経ても理解できん…。なんでこんな胡散臭いものが国策として推進されてるんだろう。
というか、クールビズって環境保護のためであるかのように言われているが、どうしてこれが環境対策のためだなんて信じられるのかがわからない。

クールビズを着用することにより必要以上に冷房を効かせる必要がなくなるので環境保護に役立つのだと説明されているが、私の経験上、こんなことはあり得ない。

私はアルバイトも含めれば様々な職場で働いてきた。そこで経験してきたことから二点指摘したい。


まず第一に冷房の設定温度を下げるのは背広を着ている男性ではない。
若い女性どころか男性までもが「寒い」と言って冷房を弱めたり止めたりしようとしている中、「暑いわねー」などとほざきながら冷房を強くしていくのは大概オバチャンであった。面の皮が厚いせいで冷気が神経まで届いてないのか?
とにかく自分の財布が痛まない限りは使わなきゃ損とばかりに冷房をガンガンに効かせようとするオバチャンというのをあちこちで見かける。

第二に、オフィスの主役は人ではなくコンピューターである。
今のオフィスには個人用のパソコンから大型のオフコンまで、さまざまなコンピュータが稼働している。そしてそのコンピューターっていうのは大抵熱に弱い。コンピューター自体が発熱するのだから、きちんと放熱できないと熱暴走をしてしまう。
そのため、人間の快適さよりもコンピューターの快適さを優先させて室温を下げているケースというのもある。コンピューターにとって快適な温度に設定された部屋で、背広を防寒着代わりに着なければ仕事をやってられないというのも経験した。


このように男性が背広を着ていようがクールビズを着ていようがオフィスの室温にはたいして影響がないように思える。男性が背広を着ているから冷房を強くしているのではなく、ほかの理由で冷房が強くて寒いから背広を着ているのではなかろうか。
そもそも、来客の際には上衣も着用するのが礼儀であろうが、客がいないときオフィスで上衣を脱いでワイシャツ姿で仕事をするのを禁じている会社なんてどれだけあるだろう?もしワイシャツ姿での勤務を認めない会社が多いというのであれば、確かに背広姿の男性のせいで冷房を強くしているということができるかもしれないが、そうでないならば言いがかり以外の何物でもないだろう。

もちろん私が様々な職場を経験してきたとはいっても、日本にあるすべてのオフィスから見れば1%にも満たないごく少数に過ぎないわけだから、私の経験したことをもとに私が正しいなんて言いきるつもりはない。しかし上記の例のような経験をした人は少なくないのではなかろうか。そんな中、男性の背広姿のみを標的として攻撃するのは平衡のとれた見方とは思えない。環境保護のためというのは隠れ蓑にすぎず、何か別の目的のためにクールビズなんてものをでっち上げたのではあるまいか。



そういえば昔、『カジュアルフライデー』なる運動があった。金曜日だけは背広を着ないで私服で仕事をしようっていう運動で、服装を変えることで発想の転換ができたり職場の雰囲気が明るくなったりというのを目指していたらしい。
まぁ、服装を変えなきゃ発想の転換ができないような頭の固さだったら、服装を変えてもたかが知れてるだろうというのは置いといて、結局この運動は日本社会全体でみると定着しなかった。

このとき背広を脱がせネクタイをはずさせるのに失敗した勢力が、環境保護という錦の御旗を掲げてリベンジしようとしているのではあるまいか。


なぜそこまでして背広を脱がせ、ネクタイを外させたいのかわからないが、大方、そうした服装を権威主義と結びつけ、そうした権威を破壊することに生きがいを感じているサヨク連中の策謀なんだろう。そんな代物に馬鹿正直に付き合う必要もなかろう。
どうしても環境が気になるというのだったら、一層のこと、絽の紋付羽織袴で仕事をしてみてはどうだろうか。通気性の良い素材でネクタイもなし。なのに背広姿以上に格式ある格好。もしクールビズ推進論者がこれにケチをつけてきたら、クールビズが環境保護とは何のかかわりもないことの証拠となるんじゃないかなぁ。

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