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日野光治

Author:日野光治
馬鹿と煙は高い所に登る。
しかし高い所に登らなきゃ見えない景色もある。
政治だって『庶民の目線』なんてのがもてはやされてるけど、そういう低い位置からだけしか見ていなければ道を誤る。
ということで、馬鹿は馬鹿なりに今日も好き勝手に政治放談したり山歩きをしてみたりと、気ままに生きてます。

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「軍歌を歌い継ぐ会」に参加してみた

本日は「軍歌を歌い継ぐ会」の定例会にお邪魔させていただいた。

きっかけは、別のグループのオフ会(もちろん軍歌のオフ会)で大久保の「昔のうたの店」を利用した際、ちょうどいらっしゃっていた、歌い継ぐ会の会長さんからお誘いを受けたことである。

6月の定例会の時は私は都合を付けられなかったため、今度こそという意気込みで何とか都合をつけて、やっと初参加。

今回の場所は九段。靖国神社と市ヶ谷駅の間の真ん中近くにある「偕行社」の会議室。
「偕行社」というのは旧陸軍の将校倶楽部で軍歌を歌うにはぴったりの場所。特に陸軍びいきの私にとってはうれしい場所選択である。これがもし水交会(海軍の将校クラブ。こっちは渋谷にあるらしい)での開催だったら…。

私は会場に向かう前に靖国神社に参拝。そして期待に胸を膨らませつつ会場へ。

会員の方の作ったカラオケ映像と、キーボード演奏の二本立てでのカラオケである。

この創作カラオケだけでもかなりの量がある。
私も持っているCDなどの曲を切り貼りして(メロディーがそのまま前奏や間奏や後奏に使われている場合はその部分をリピートさせる。あるいは歌入りの曲の前・間・後奏と、行進曲などに使われている歌なしメロディー部分をくっつける)作ったものでカラオケ映像をいくらか作っているのだが、ケタが違う。100曲以上あっただろうか。
しかも、カラオケ店のカラオケ映像のようなでたらめな映像ではなくきちんと歌詞にあった映像が使われている。
しかし歌える曲にものすごい偏りのある私には、歌える曲は多くはなかったり。
しかしそれだけの数を作る労力・情熱には頭が下がる。

キーボード伴奏については、「(「偕行社」発行の軍歌集)『雄叫』に乗っている曲なら弾ける」とか「楽譜に載っていない曲でも1番だけ聞けば2番から伴奏してくれる」とかいう噂の聞こえるすごい方が伴奏してくださるという。

この二本立てというのはものすごく贅沢な気がする。

今回の参加者は総勢19名とのこと。さすがにこの人数だとなかなか歌えない。
結局、約3時間の中で私が歌えたのは2曲だけ。いや、リクエストを出せばもっと歌えたとは思うのだが、「他の方も大体一人2曲くらい、人によっては1曲しか歌っていないのに初参加の私が何曲も歌っては…」なんて気を回した結果キーボード伴奏のほうは頼めなかった。惜しいことである。どんな曲でも歌える環境なのに時間の制約があるのが恨めしい。
まぁ、次回、次々回は開催場所が大久保の「昔のうたの店」になるそうだが、その次はまたこの「偕行社」を利用する予定とのことなので、その時まで楽しみは取っておくことにしたい。



余談1
この軍歌の会の帰り道、(軍歌とは関係ない)某ゲームでの友人と偶然出会う。久し振りであるがお元気そうでなにより。そっちのほうのオフ会も久々にありそうな感じ?
期待して待つ。


余談2
別グループの軍歌オフ企画が持ち上がっている。日程も決まっていないし、参加できるかはわからないが、開催場所の候補として、大久保の「昔のうたの店」、銀座の「宜候」、銀座の「藤井」が挙がっている。
料金面で考えれば「昔のうたの店」を推したいところであるが、陸軍系の軍歌酒場である「藤井」というのも行ってみたい店の筆頭である。海軍系の「宜候」にも一回くらいなら行ってみてもよいかもしれない。
しかし「藤井」の情報をあまり見かけないのだが、どんな店でどんな料金形態なのだろう。それがわからないことにはなかなか「藤井」を推し辛い。誰か知ってる人はいないだろうか。
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・・・

鳩山内閣成立より数日。
民主党が政権を取ることに対して、疑念を表明してきたが、閣僚メンバーを見て言葉を失った。ここまでひどいのか…。

特にひどいのが、すでにあちこちで言われていることではあるが、法務大臣人事である。
法務省というのは『基本法制の維持及び整備、法秩序の維持、国民の権利擁護、国の利害に関係のある争訟の統一的かつ適正な処理並びに出入国の公正な管理を図ることを任務とする』官庁であり、法務大臣というのはその法務省の指揮監督をする役職である。

したがって法務相には、特定の思想に偏った者が好ましくないことは自明のことであろう。

しかし鳩山内閣の法務相に就任した千葉景子氏はどうだろう。

たとえばこの御仁は死刑反対論者である。法務大臣の職責として死刑執行命令書にサインすることができるだろうか?
記者会見においては、死刑執行命令書のサインについては「慎重に考えていきたい」などと言っていたが、政治家の語法から考えて、これは「サインしない」というのと同義であると判断できる。
しかし「死刑」というのは現在の日本の法制度の中に正式に組み込まれているものであり、その執行命令書にサインすることは法務大臣の職責として規定されている。
正当な法の執行を妨げることが許されては、日本は法治国家とは呼べなくなってしまう。

もちろん自民党政権下においても、自らの信条に基づき、死刑を執行しなかった大臣はいた。しかし今回の御仁はそれだけにとどまらないだろう。

「不法入国在留外国人の日本在留特別措置」の要請だとか、「入国管理局の不法滞在外国人の通報システム」の批判だとかをやってきたのもこの御仁である。こんな人物が、出入国の公正な管理などできるのであろうか。不法入国・滞在という犯罪者を利するようなことがあれば、とても許されることではあるまい。

「人権擁護法案」の推進者でもある。しかしこの人権擁護法案というのが、特定の人権を過剰に擁護することによって別の人権を踏みにじる可能性のある欠陥法案であることはすでに多くの方が指摘している。人権擁護とは名ばかりの人権抑圧につながりかねない代物の推進者。
その反面「外国人参政権」だの「二重国籍」だのも推進していたりする。日本人の権利よりも外国人の権利を優先させているかのようなこんな御仁に、「『国民』の権利擁護」を任務とする法務省の指揮監督を任せられるだろうか。

このような法務省の任務と真っ向からぶつかるような人物は、法務大臣にふさわしくないだろう。こんな人物を法務大臣に指名した鳩山氏の見識を疑う。この人事だけでも、鳩山内閣への信用を失わせるのに、私にとっては十分である。まぁ、もとからたいして信用はしていなかったのではあるが。

この法務大臣ほど露骨ではないものの、民主党政権に対して、国民受けの良さそうな政策に関して、法や正当な手続きを無視して突っ走りそうな印象を持っているのだが気のせいだろうか。
「目的は手段を正当化する」なんてことを実際に行ったりしないよう願いたい。

そもそも法や手続きをきちんと守れないよ言うな国を、諸外国政府が本気で相手してくれると思っているのだろうか。法が適正に執行されるかわからないという目で見られたが故に不平等条約に甘んじざるを得なくなった明治の先人たちの苦労を、今一度思い起こすべきだろう。

テーマ : 民主党・鳩山政権
ジャンル : 政治・経済

民主党政権誕生の問題点

別にこのブログは政治について思うところを書き綴るために作ったのではないのだが、まぁ、まだもうしばらくは政治がらみの話題が多くなってしまうのだろう。

さて、左右に幅広いうえに社民党やら国民新党やらの余計な勢力とも協調しなければならなくなる連立という道を選んだ民主党政権では政策の調整の面で収拾がつかなくなる可能性があるが、実のところそんなことはたいした問題だとは思えない。

ただ、「官僚制の打破」という問題に関しては少し考えてみる必要がある。おそらくどこの政党であっても「官僚制の打破」という国民受けのよさそうな標語に表立って反対することはできまい。
したがってこの件について、何らかの制度改革は進んでしまう可能性がある。

いかに政治家が官僚を統制しようとしたところで、頻繁に担当する政治家が変わるような状況下では、省庁やその仕事を熟知している官僚に太刀打ちできるわけがない。たとえ同一政権内では担当者を変えないようにしたところで、選挙があればその結果次第では政権が代わる以上、やはり心もとない。それこそ次の選挙に備えた活動を削って勉強して追いつくかどうかといったところであろう。
そうである以上、政治家と官僚の共存の道をとる以外あるまい。もちろん自民党政権下のように官僚に丸投げするという形での共存では駄目であるが、少なくとも政治家と官僚を敵対させようというのは間違いであろう。しかし「官僚制打破」という言葉には共存より敵対の思想が強く表れているのではなかろうか。


いま必要なのは、官僚と敵対し「官僚制打破」の美名のもとに官僚の権限を縮小させる=官僚を働かせないことではなく、いかにして官僚を働かせるかを考えることではなかろうか。

ここで『民主党政権下』での官僚制の打破というのが、どうにも危なっかしく見える。
たとえば年金問題の主犯である自治労のような公務員組織も民主党の支持母体である。
こういうことを考えると、「官僚制打破」の標語のもと、幹部クラスの公務員をいじめる半面、労組に入るような下吏を優遇するなんてこともあるのではないかと勘ぐってしまう。もちろん官僚制打破といった場合は自治労傘下の部署のみが対象ではないわけであるが、支持母体にかかわりなく、下吏は幹部のしりぬぐいをさせられる被害者だなんて認識を持っていそうで怖い。

公務員の中にも優秀で、かつ国益を考えている人材というものはいるわけだし、そういう人材がいたからこそ、政治がいい加減でも何とか今まで、だましだましやってこれたとも言えよう。そうした優秀な者の意欲を「官僚制の打破」の美名のもとに削ぎ、能力も意欲も劣った下っ端をのさばらせるような制度改革をすればどうなるか。公務員というのは何らかの権限があってはじめて仕事ができるようになるという面もあるのに、権限を縮小して仕事になるのだろうか。国益より私益を優先して労組の活動に熱中するような下っ端などを優遇したとして、そいつらを働かせることなどできるのだろうか。
これでは本格的に国が傾くのではなかろうか。

公務員制度改革自体に反対するつもりはないが、民主党による、「官僚制打破」という標語のもとで行われる改革には疑念を表明しておきたい。

テーマ : このままで、いいのか日本
ジャンル : 政治・経済

民主大勝・自民大敗について思うところ(2)

前回、現代の国政選挙においては政権選択よりも体制選択をすべきであったこと、しかし自民党も民主党も体制選択を旗印にかがげられるような状況にはないことを書いた。

この問題の根は深いのではなかろうか。

そもそも『政党』とは「共通の政治的主義・主張をもつ者によって組織され、一定の政治的利益や政策の実現のために活動し、政権獲得をめざす集団。」のことであるはずである。
ところが日本においては、自民党も民主党も「共通の政治的主義・主張をもつ者によって組織」されてはおらず、単にる集票のための方策であるにすぎない。
また国民の側も、今回の選挙で見られたように、民主党の政策を精査したわけではなく、ましてや個々の候補者を精査したわけでもなく、ただ『民主党』というブランドに投票している。

つまり候補者も有権者も政党制というものの意義を無視した行動をしているのである。その結果が体制選択ができない状況なのである。

共通の政治目標を持つ者同士の集まりであるならば、候補者がどこの政党に属しているかは投票の際の一つの指針とすることもできようが、共通項の少ない者の寄せ集めに対して所属政党を判断材料とするのがいかに危険なことか、有権者は今一度考えるべきであっただろう。
その、判断材料とすべきでないことを判断材料としてしまうという行為は、候補者や党の政策を精査する手間を惜しみ、一見わかりやすい記号に頼る有権者が多かったということだろう。
しかしそのような手抜きをするものに、果して選挙において投票する資格があるのだろうか。

なるほど、選挙権というのは国民の『権利』ではある。しかしそれは、どんなテキトーな投票をしてもかまわないなどということを意味するものではあるまい。しっかり精査した上での投票でなければ、それは権利の濫用に他ならない。手抜きをしてまで投票するくらいなら棄権したほうがまだ誠実というものである。
大体において、自ら変革のために動こうという意欲もなく、代わりに何か変革を行ってくれそうな人を選ぼうという他人まかせなものが選挙であるのに、その選ぶ過程すら自らの見識で持って選ぶのではなく空気任せとは、いったいどこまでやる気がないのであろうか。このような者たちに選挙権など与えていることこそが問題であろう。

本来は政権選択の前に体制選択、さらにその前に政界再編により政党の意義を復活させる必要があったのに、それらをすっ飛ばしていきなり政権選択をしてしまったのが、今回の選挙だったのだろう。
ただでさえ左右に幅の広い民主党なのに、それがいきなり議員数倍増、さらに社民党やら国民新党との連立などということになれば収拾がつかなくなるのは目に見えている。

その収拾のつかなさがきっかけで政界再編が成り、政党制が正常化するのであれば、民主党の勝利にもそれなりの意義が見いだせようが、果たしてどうなることやら。

テーマ : これでいいのか日本
ジャンル : 政治・経済

民主大勝・自民大敗について思うところ(1)

衆議院総選挙において民主党が大勝し自民党が大敗してから約一週間。
いろいろ書きたいことはあるのだが、何から書こうか迷う。とりあえず思いつくままに筆をすすめてみたい。

まずは、毎日新聞9月3日夕刊のコラムの話から始めたい。
曰く、「冷戦も終わり、保革対立の意味が薄れ保守2極構造となったこの時代に、『日本を壊すな』『この国を守り抜く決意』などという言葉を並べたて、『政権選択』の場と思われている選挙を『体制選択』という時代錯誤な考え方で戦ったから自民は負けたのだ」ということらしい。

現象に対する説明としては的を射ている部分もあるかと思うのであるが、果たして『体制選択』という考え方は本当に時代錯誤であったのだろうか?その選択を今回の選挙での主要な争点にしなかったことが、将来に禍根を残すことはないのだろうか?

自民党や民主党が本当に保守政党であるかどうかはかなり疑問に思う、というか、民主党の目指すところはどう見ても日本の在り方を変える=革新的であるように思うのだが、それはともかく、いわゆる冷戦時代というのは、自ら「日本という国をどのような形にしたいのか」ということを考えなくても、2極のうちのいずれかの陣営に組み込まれるような時代であったとも言えよう。

しかし現在は多極化、あるいは無極化の時代であるとされている。このような時代においては、ただ状況に流されるだけでは国がどうあるべきかの答えは出ない。自ら積極的に「日本がどうあるべきか」の模索をしなければならないのである。個々の政策論争などは、「日本がどうあるべきか」の答えののちに考えるべきものである。

なぜならば、「国家」という言葉の通り、国を家に見立てた場合、国の在り方というのは土台の部分、個々の政策というのは土台の上に築かれる建物の部分だからである。多極化・無極化した世界というのは流動化・液状化した地盤に置き換えることもできよう。そんな不安定な地盤の上に家を建てるのに、土台がしっかりしていなければ、たとえ上にどんな立派な建物を作ったところで、ちょっとした風雨で脆くも崩れ去るのみではなかろうか。

そういう意味において、もし今回自民党が体制選択という争点を出さなかったとしたら、保守政党としての自民党の命脈は断たれていたことだろう。つまり毎日新聞コラム執筆者の考えは現実の時代背景を全く無視したものであり、今こそ『体制選択』を主要な争点とすべき時(むしろ遅いくらい)であるにもかかわらず、その他の枝葉末節の議論に注目を集めたマスコミと、そのマスコミにより争点をはっきり認識できなくなった有権者のために、『体制選択』についての議論が進まなくなってしまった不幸を嘆くべきであろう。

ただ、自民党が保守政党として生き残るために『体制選択』という争点を出さなければならないのは確かであるが、自民党に「体制選択」で戦う資格があったのかという問題はあっただろう。
日本の在り方を変えようとした小泉純一郎氏が長期間政権を担った、その後遺症がまだあるのに、自らを体制の守護者のごとくに評し「体制選択」も何もあったものではないだろう。そもそも、大幅に議席を減らした今においても自民党は左右に幅広く、日本のあるべき形などまとめられそうにない。とても「体制選択」を旗印に掲げられるような状況にはないように見える。

そうはいっても、民主党は全体としては革新的ではあるとはいえ、自民党以上に左右への広がりが大きい政党である。こちらでも国の在り方などまとまるわけがない。

土台を欠いたまま「政権選択」とはしゃいできたツケがいつ来るか。恐ろしいことである。

テーマ : 憂国
ジャンル : 政治・経済

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