多摩御陵参拝
8月31日は大正帝の誕生日。それに先立ち29日に多摩御陵(大正帝のお墓)にお参りに行ってきた。ついでに先日富士山で痛めた足の回復状況確認のために高尾山にも登ってきた。
ということでまずは今回の行程。

JR高尾駅北口を出てまずは多摩御陵へ。今は武蔵陵墓地っていうのかな? まぁ今回は大正帝のほうをメインに考えているので、全体としての墓地名ではなく多摩御陵って名前のほうを使おう。

『多摩御陵入口』という交差点があるし、写真のような石碑もあるし。ちなみに道の反対側には武蔵野御陵参道って石碑もある。
ここから墓地の総門まではケヤキ並木が続く。
ケヤキ並木を抜けて墓地に入る。参拝客はほとんど見当たらない。まだ開門してから30分くらいしか経っていないからなのか? とにかく手水をして参道を進む。ここは墓地というより神社、あるいは神域と言った方がよい場所だからね。

杉並木の中を砂利を踏みながら進むと多摩御陵への道と武蔵野御陵への道の分かれ道にたどり着く。写真で言うと、左へ進むとと多摩御陵、右に進むと武蔵野御陵に着く。まずは多摩御陵へ。

鳥居をくぐり、階段前の柵の前で拝礼。その後となりの多摩東陵(貞明皇后のお墓)、少し離れたところの武蔵野御陵(昭和帝のお墓)とその隣の武蔵野東陵(香淳皇后のお墓)のそれぞれに拝礼する。

ここに参拝に来たことにより、日本を何とかしなければという思いを新たにする。選挙なんて言う所詮は人任せな制度に頼るのではなく、今私にできることは何だろう?
一通り参拝したのち、墓地を後にする。しかし本当に参拝者が少ないなぁ、参拝者よりも警官のほうがよく見かけたくらいである。まぁ4月29日などには参拝者も増えるのだろうけれども、そうした特別な日にしか来ないというのはもったいないくらい良い場所だと思う。まぁ、私も交通の便の問題であまり頻繁には来れないのであるが、これからも折を見てお参りに来たいと思っている。
とりあえずは高尾駅近くまで戻る。これから高尾山に登りに行くわけであるが、山の入口までどうやっていくか。
高尾駅から京王線に乗れば一駅である。運賃は120円。缶ジュース一本分。大した距離ではないということで運賃をケチって歩くことに。でも山の入口に着くまでの間に缶ジュースを二本飲んじゃったり。あれ、電車に乗った方が安くすんだのか。私が暑さに弱いってのを忘れてたよ。まぁいいや。
とにかく高尾山の入口には11時に到着。いよいよ登り始めるぞってところで次回に続く。
ということでまずは今回の行程。

JR高尾駅北口を出てまずは多摩御陵へ。今は武蔵陵墓地っていうのかな? まぁ今回は大正帝のほうをメインに考えているので、全体としての墓地名ではなく多摩御陵って名前のほうを使おう。

『多摩御陵入口』という交差点があるし、写真のような石碑もあるし。ちなみに道の反対側には武蔵野御陵参道って石碑もある。
ここから墓地の総門まではケヤキ並木が続く。
ケヤキ並木を抜けて墓地に入る。参拝客はほとんど見当たらない。まだ開門してから30分くらいしか経っていないからなのか? とにかく手水をして参道を進む。ここは墓地というより神社、あるいは神域と言った方がよい場所だからね。

杉並木の中を砂利を踏みながら進むと多摩御陵への道と武蔵野御陵への道の分かれ道にたどり着く。写真で言うと、左へ進むとと多摩御陵、右に進むと武蔵野御陵に着く。まずは多摩御陵へ。

鳥居をくぐり、階段前の柵の前で拝礼。その後となりの多摩東陵(貞明皇后のお墓)、少し離れたところの武蔵野御陵(昭和帝のお墓)とその隣の武蔵野東陵(香淳皇后のお墓)のそれぞれに拝礼する。



ここに参拝に来たことにより、日本を何とかしなければという思いを新たにする。選挙なんて言う所詮は人任せな制度に頼るのではなく、今私にできることは何だろう?
一通り参拝したのち、墓地を後にする。しかし本当に参拝者が少ないなぁ、参拝者よりも警官のほうがよく見かけたくらいである。まぁ4月29日などには参拝者も増えるのだろうけれども、そうした特別な日にしか来ないというのはもったいないくらい良い場所だと思う。まぁ、私も交通の便の問題であまり頻繁には来れないのであるが、これからも折を見てお参りに来たいと思っている。
とりあえずは高尾駅近くまで戻る。これから高尾山に登りに行くわけであるが、山の入口までどうやっていくか。
高尾駅から京王線に乗れば一駅である。運賃は120円。缶ジュース一本分。大した距離ではないということで運賃をケチって歩くことに。でも山の入口に着くまでの間に缶ジュースを二本飲んじゃったり。あれ、電車に乗った方が安くすんだのか。私が暑さに弱いってのを忘れてたよ。まぁいいや。
とにかく高尾山の入口には11時に到着。いよいよ登り始めるぞってところで次回に続く。
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大麻をもっと栽培してくれ!
処暑である。暑さが落ち着いていく時期である。
とは言っても実際にはまだまだ暑い日が続くだろう。
まぁそれはともかく、暑い時期の和装について書いてみよう。
その前に7月1日に七夕関連の記事で女性の浴衣について書いたが、そこで写真をさらしていなかったので改めて。
7月2日に平塚の七夕会場で撮影。はたから見てると、他の人たちが七夕飾りを撮影しようと上を向いている中、女性の足元を撮影しようとして下を凝視している怪しいオッサンだったんだろうなぁ。
それはともかく人ごみの中で足元を撮影するのってすごく大変だった。
まず、普通の浴衣にしては丈が短すぎるけど、ミニ浴衣ほどには短くないという、何とも中途半端な丈のもの。

この写真のも結構短いけれども、数年前に見かけたのはこれよりもさらにもう少しばかり短かった。さらに言えば、今年は、ここまで短くはないもののやはり普通の浴衣にしては丈の短いのを着た女性を数人見かけた。短いのが流行りつつあるのかな?
まぁ、数年前に見かけたのは短い丈の浴衣に下駄であったためにつんつるてんに見えたわけであるが、サンダルを合わせていると、そこまでの違和感を感じなくなるものだねぇ。
ちなみにミニ浴衣ってのはこれ。

これもやっぱりサンダルを合わせるものだろうね。
で、浴衣にはやはり下駄を合わせてほしいという気持ちはあるものの、サンダルでもうまくコーディネートできているのなら、あえて文句は言うまい。しかし健康サンダルはないと思うんだ。で、健康サンダルというのはあまり見かけないのだが最近増えてきているのがこれ。

クロックスっていうんだっけ?この樹脂サンダル。
健康サンダルにせよこのクロックスにせよ浴衣に合わせるのにふさわしいアイテムとはいえない。オシャレという意識を持っていたらこういう選択はしないんじゃないかなぁ。「楽だから」って理由ではいてるんだろうけれども、そういう理由ってのがそもそも粋じゃない。クロックスで楽をしたいんならクロックスに合う服を選べばよいのだ。無理して浴衣を着る必要なんてない。
まぁ甚平とかならクロックスでもいいかな。私は甚平で外出するような輩の神経がわからないんだけれどもね。そういう美意識というか美学というか美的センスのない輩の履くものだって認識なんだよ、私にとってのクロックスってのは。
さて、女性の浴衣についてはこれくらいにしておいて、夏の和装についてである。
夏の和装というと浴衣を思い浮かべる人も多いと思う。そうであるが故に上記のような変な浴衣コーディネートも出てくるのであろう。まぁ私は浴衣ってのは室内着と認識しているので、外出時に浴衣を着ることは絶対にないのであるが、浴衣って夏に適した着物なんだろうか。
確かに浴衣を着ている人を見かけると涼しげに見えるかもしれない。でも本当に涼しいとは思えないんだよなぁ。これは私だけの感想ではなくて、「綿が涼しいわけないじゃん」と言っている着物ファンは少なからずいるようである。
まぁ、絽などのような通気性の良い織り方であれば涼しくはなるだろうけれども、絽は浴衣地にはしないだろう。
では夏着物として良い素材は何かと言えば麻である。麻の着物を浴衣のように着るということはできるだろうけれども、麻って高価だからねぇ。浴衣のような普段使いをするのはちょっともったいないような気がする。麻100%は高価なので私は麻混の生地の着物しか着れていない。
なんで麻が高いかと言えばあまり栽培されていないから。なんであまり栽培されていないかと言えば…。
実はこの繊維としての麻ってのは、大麻草の繊維のことなのである。そう、あの麻薬を作る大麻である。
ちなみに七味唐辛子に入っている麻の実も大麻の種子である。
麻薬問題のせいで栽培が制限されているから麻の着物が高いわけである。
しかし、もともと日本の大麻草は外国の大麻草と比べて陶酔成分の生成量が少なめの品種だったらしいうえ、それを品種改良して陶酔成分をほとんど生成しない品種も作りだされている。規制緩和してこういう麻薬成分を作らない大麻を大々的に栽培できるようにしてもらえたら、麻の着物も多少は安くなるのではあるまいか。まぁそれでも国産だとやっぱり高くなっちゃうかな?
とにかく大麻を麻薬生成の手段としか見ないごく一部の不届き者のせいで快適な着物ライフが阻害されるのはたまらない。麻薬は撲滅されなければならないが、大麻栽培に関しては、現状では実態に沿わない、必要以上の規制になっているように見える。
どんどん大麻を栽培できるようにして麻の着物を安く手に入れられるようにしてもらいたい。いや、何も和服の生地だけに使うことはない。麻のスーツなども涼しくて良さげではないか。クールビズなんて胡散臭いものを推進するよりも、大麻栽培について規制緩和して、麻のスーツの着用を推進した方がマシに思える。何とかならないかな?
とは言っても実際にはまだまだ暑い日が続くだろう。
まぁそれはともかく、暑い時期の和装について書いてみよう。
その前に7月1日に七夕関連の記事で女性の浴衣について書いたが、そこで写真をさらしていなかったので改めて。
7月2日に平塚の七夕会場で撮影。はたから見てると、他の人たちが七夕飾りを撮影しようと上を向いている中、女性の足元を撮影しようとして下を凝視している怪しいオッサンだったんだろうなぁ。
それはともかく人ごみの中で足元を撮影するのってすごく大変だった。
まず、普通の浴衣にしては丈が短すぎるけど、ミニ浴衣ほどには短くないという、何とも中途半端な丈のもの。

この写真のも結構短いけれども、数年前に見かけたのはこれよりもさらにもう少しばかり短かった。さらに言えば、今年は、ここまで短くはないもののやはり普通の浴衣にしては丈の短いのを着た女性を数人見かけた。短いのが流行りつつあるのかな?
まぁ、数年前に見かけたのは短い丈の浴衣に下駄であったためにつんつるてんに見えたわけであるが、サンダルを合わせていると、そこまでの違和感を感じなくなるものだねぇ。
ちなみにミニ浴衣ってのはこれ。

これもやっぱりサンダルを合わせるものだろうね。
で、浴衣にはやはり下駄を合わせてほしいという気持ちはあるものの、サンダルでもうまくコーディネートできているのなら、あえて文句は言うまい。しかし健康サンダルはないと思うんだ。で、健康サンダルというのはあまり見かけないのだが最近増えてきているのがこれ。

クロックスっていうんだっけ?この樹脂サンダル。
健康サンダルにせよこのクロックスにせよ浴衣に合わせるのにふさわしいアイテムとはいえない。オシャレという意識を持っていたらこういう選択はしないんじゃないかなぁ。「楽だから」って理由ではいてるんだろうけれども、そういう理由ってのがそもそも粋じゃない。クロックスで楽をしたいんならクロックスに合う服を選べばよいのだ。無理して浴衣を着る必要なんてない。
まぁ甚平とかならクロックスでもいいかな。私は甚平で外出するような輩の神経がわからないんだけれどもね。そういう美意識というか美学というか美的センスのない輩の履くものだって認識なんだよ、私にとってのクロックスってのは。
さて、女性の浴衣についてはこれくらいにしておいて、夏の和装についてである。
夏の和装というと浴衣を思い浮かべる人も多いと思う。そうであるが故に上記のような変な浴衣コーディネートも出てくるのであろう。まぁ私は浴衣ってのは室内着と認識しているので、外出時に浴衣を着ることは絶対にないのであるが、浴衣って夏に適した着物なんだろうか。
確かに浴衣を着ている人を見かけると涼しげに見えるかもしれない。でも本当に涼しいとは思えないんだよなぁ。これは私だけの感想ではなくて、「綿が涼しいわけないじゃん」と言っている着物ファンは少なからずいるようである。
まぁ、絽などのような通気性の良い織り方であれば涼しくはなるだろうけれども、絽は浴衣地にはしないだろう。
では夏着物として良い素材は何かと言えば麻である。麻の着物を浴衣のように着るということはできるだろうけれども、麻って高価だからねぇ。浴衣のような普段使いをするのはちょっともったいないような気がする。麻100%は高価なので私は麻混の生地の着物しか着れていない。
なんで麻が高いかと言えばあまり栽培されていないから。なんであまり栽培されていないかと言えば…。
実はこの繊維としての麻ってのは、大麻草の繊維のことなのである。そう、あの麻薬を作る大麻である。
ちなみに七味唐辛子に入っている麻の実も大麻の種子である。
麻薬問題のせいで栽培が制限されているから麻の着物が高いわけである。
しかし、もともと日本の大麻草は外国の大麻草と比べて陶酔成分の生成量が少なめの品種だったらしいうえ、それを品種改良して陶酔成分をほとんど生成しない品種も作りだされている。規制緩和してこういう麻薬成分を作らない大麻を大々的に栽培できるようにしてもらえたら、麻の着物も多少は安くなるのではあるまいか。まぁそれでも国産だとやっぱり高くなっちゃうかな?
とにかく大麻を麻薬生成の手段としか見ないごく一部の不届き者のせいで快適な着物ライフが阻害されるのはたまらない。麻薬は撲滅されなければならないが、大麻栽培に関しては、現状では実態に沿わない、必要以上の規制になっているように見える。
どんどん大麻を栽培できるようにして麻の着物を安く手に入れられるようにしてもらいたい。いや、何も和服の生地だけに使うことはない。麻のスーツなども涼しくて良さげではないか。クールビズなんて胡散臭いものを推進するよりも、大麻栽培について規制緩和して、麻のスーツの着用を推進した方がマシに思える。何とかならないかな?
テーマ : 着物・和風小物
ジャンル : ファッション・ブランド
2010年二回目の富士登山記 …中途撤退
さて、7月31日・8月1日で須走口零合目から富士山に登った。しかしこれはあくまでも昨年の補完。今年は今年の独自性を持ったコース選択をしたかったって気もあった。特に今回は剣ヶ峰にも登っていないし。ということで状況が許すならもう一回登りに行きたいと思っていた。
ちょうど天気もよさそうだし、富士総合火力演習のチケットも外れたようで悔しいしということで、21日・22日で吉田口から登ることにした。えっ? その資金を使って富士総合火力演習のチケットをオークションで落札すればよかっただろうって? まぁそういう考え方もある。でも転売屋を喜ばせるだけだからねぇ。抽選申し込みの厳格化がされたはずなのにこの出品数って何? こういうふざけた連中に金を払うのってなんか嫌。
とりあえず今回の目的は、高低差3000メートル越えを目指すことと、途中で寄り道をして、有名な『あの』神社にお参りに行くことの二つに設定。
普通吉田口登山というと富士吉田駅を出発点とするわけだが、富士吉田駅の標高は809メートル。ここから剣ヶ峰まで登っても高低差は3000メートルには届かない。ということで、標高753メートルの下吉田駅を出発点とする。下吉田駅の近くには小室浅間神社もあるし。
ということで下吉田駅には8時ちょうどに到着。当然のことだけどこんなところで降りる登山者は私だけ。まずは小室浅間神社に向かう。

ちなみにこの小室浅間神社は『下浅間』と呼ばれ、『上浅間』と呼ばれる北口本宮富士浅間神社と対の関係にあるように思われているが、直接関係はないらしい。単に上吉田地区にある浅間神社、下吉田地区にある浅間神社を区別してるだけらしい。
参拝して登頂祈願。
ちなみにこの小室浅間神社は流鏑馬でも有名のようで、境内でそのための馬が飼われている。

中央競馬会から奉納された馬らしいけど、競走馬時代の名前は何だったんだろう?
さて、国道139号線(通称:富士みち)を進んでいく。しばらく行くと見えてくるのが金鳥居。吉田口を富士吉田駅から登り始めるときの実質的な出発点である。

鳥居の奥に富士山が見える。下の方は雲に覆われているようだが、ここから鳥居越しに富士山が見えるということはそれほど天気は悪くならないだろうと期待する。
金鳥居をくぐりさらに進み、旧鎌倉往還(138号線)にぶつかったら左折。北口本宮富士浅間神社はもうすぐである。しかしまずは浅間神社には向かわず、さらに南東に向かって進む。向かう先は新屋山神社の里宮。今回の目的地の一つはこの神社の奥宮なのだが、先に里宮にもご挨拶しておくのが筋というものだろう。

この神社に限らず山神社のご祭神は大山祇命。富士山の神様である木花之佐久夜毘売命のお父上である。鳥居の連なる参道を通って参拝。
そののち来た道を戻って北口本宮富士浅間神社へ。ちなみにここまでもずっと晴れて太陽の照りつける中を歩いてきたのだが、須走のふじあざみラインのときのようなきつさは感じない。秋に近づいたことによって日差しが柔らかくなっているのだろうか。なんにしても須走のときよりも距離・高低差ともに長い距離を歩く予定なのだから、体力を消耗せずに進めるのはありがたい。
そして北口本宮富士浅間神社に到着。杉や檜の大木の並ぶ参道を進む。

この鳥居には『三国第一山』と書いてある。日本一と言わず三国一=世界一とは大きく出たものである。しかし山は高さがすべてではない。富士山が世界一だと思っても間違いとは言い切れないだろう。
ちなみにここの手水舎の水は富士山の湧水らしい。最近の神社では水道水のところも多いようだが、やはり神社では天然水のほうがありがたみがある。こういう豊かな自然を感じられる神社って好きだなぁ。
参拝ののち、案内に沿って右奥に進む。

この富士山と書かれた鳥居が登山道の入り口である。階段を上ってこの鳥居をくぐったところにあるのが祖霊社。富士信仰の先駆者たちの御霊を祀っているようだ。ここにもお参りし、いよいよ登山開始。時間は10時30分。
ほんのちょっと(3・4分)進むと大塚丘に着く。

地図によっては大塚山と表記されているようだが、ここは日本武尊が富士山を遥拝した場所で、この場所に造られた浅間神社を、のちになって北東の位置に遷したのが北口本宮富士浅間神社の始まりとされている。
昔はここからも富士山が見えたのだろうけれども、今は木に覆われていて見えない。
大塚丘を後にしてすぐに看板が見えてくる。

ここから先は吉田口登山道(車道)と吉田口遊歩道(歩道)がほぼ並行してあるらしい。まぁ車道を歩いても良いって言えば良いんだけれども、せっかく遊歩道も整備されてるんだからそっちを歩くことに。
そして遊歩道の入口。

早速歩きはじめる。しばらく行くと上から来る人とすれ違うが、かなりの軽装。富士山から下りてきたわけではなく、この辺を軽く散歩しているだけなのだろう。
しかしそれっきり人と会わない。麓からの登山口としてはメジャーな吉田口ではあるが、本当に麓から登る(or麓まで下る)人って意外と少ないのだろうか。それとも時間が違うのかな?
順調に進んできたのだが、東富士五湖道路をくぐったあたりで足に異常。右股関節に痛みが出始めた。まぁ、まだ大した痛みでもないので、様子を見ながら進むことにする。
そんなこんなで中の茶屋には12時に到着。足の痛みを気にしながらの行程だったにもかかわらず浅間神社からここまで1時間半。標準タイムでついてしまった。

本当はここで蕎麦でも食いながら休憩したいところだったのだが、あいにく店は開いてない。仕方がないので、行動食として持ってきている羊羹とお茶で休憩。
あたりを見回してみると、ここまで車で来て、ここに駐車して登り始める人がちらほら見かけられる。一応このさきの馬返しまでは車でも行けるはずだが、駐車スペースなどの関係でここから登ることにしたのかな?
足の痛みはだんだん増してきている。これでは登頂は無理だろう。しかし今回の目的の一つである神社は二合目相当。そこまでなら何とか頑張れないだろうか。
その神社はこの中の茶屋から滝沢林道を登ったところにある。しかし滝沢林道は曲がりくねっているから、結構な距離を歩かなければならない。それならばこのまま吉田口登山道を二合目までほぼまっすぐに登り、そこから細尾野林道を通って滝沢林道に抜けた方が楽だろう。というか最初からそのつもりで計画を立てたわけだし。
ちなみにこの細尾野林道沿いには、昔女性の登頂が禁じられていた時代の遥拝所である『女人天上』っていうのもあるらしい。そういうのも見物したいし。
ということで出発したのだが、20分ばかり進んだところで、痛みが非常に強くなり、先に進めなくなってしまった。正確に言うと登り方向には足が進められない=腿を少しでも上げると痛むが、腿をそれほど上げなくても済む下り方向なら何とか進める状態。ちなみに後ろ向きになら登れることは登れるけれども、長距離後ろ向きに歩くというのは現実的ではないし、後ろ向きでも登ることができなくなるまで足を酷使したら、自力で降りることも不可能になるだろう。股関節ではなく膝関節の痛みだったらまだ何とかなったんだけれどもねぇ。膝痛との付き合いはもうそれなりになるから、それなりに歩き方のコツみたいなものが身についていると思うし。
仕方がないので泣く泣く撤退を決断。中の茶屋で待っていればタクシーも通るだろうから、タクシーで滝沢林道を上って神社に向かうことも考えたが、乗車料金がどのくらいかかるか怖いので断念。
話は変わるが、この中の茶屋の上へも吉田口登山道と吉田口遊歩道の二本(滝沢林道も含めると三本)が伸びているのだが、舗装されている方(多分こっちが登山道)のみならず、未舗装の方(多分遊歩道)も車が走っているってのはどうなんだろう。車に煩わされることなく歩くことができるのが遊歩道だろう。こんなに普通に車が通っていたら遊歩道の意味がないではないか。登山道も遊歩道も道幅がそれほどないため、車同士のすれ違いを避けようとしているのかもしれないが(なんか知らないけれども、舗装道のほうではやたらと大型のミキサー車が通ってたし)、歩行者にとっては迷惑な話である。
結局今回は一合目まですら登れなかった。今回の脚部不具合の原因であるが、正確なところは分からないが、思い当たる節はないこともない。
須走からの登山の際、土踏まずの痛みでゆっくりとしか進めなかったわけであるが、今回そうした土踏まずの痛みを防止して、少しでも楽に登るために、あらかじめテーピングをしておいたのだ。このテーピングのせいで、足全体の筋肉の使い方に微妙な変化が起こり、その変化が負担という形で股関節に集中してしまったのではなかろうか。それ以外、今までの登山・ハイキングと違うことはやっていないのだから。
そうだとすれば、股関節の痛みでは登頂できないが土踏まずの痛みでは登頂実績がある以上、テーピングをやめた方がよいということになろうか。まぁテーピングのせいかどうか、何回か実験をしてみてから判断するとしよう。どうせ富士登頂を目指すのは来年の夏までお預けになるだろうから。それまでに街中や近所の低山で実験する時間は十分にある。
さて、吉田口で登頂を目指すのは来年でもよいとして、神社の方にはもっと前に行きたいなぁ。二合目なら夏に限らず登ることはできる。しかし冬の間は道が閉鎖されちゃうんだっけ?
タクシーを使っていくのが楽だとは思うんだけど、料金が心配。どなたか一緒に参拝に行きませんか?複数人で割り勘にすればタクシー料金も気にならない程度に抑えられるんじゃないかと思うんだけど。
一人で行くんならやっぱり歩きだなぁ。これまた結構先の話になっちゃうけど、中の茶屋付近はフジザクラの群生地などもあるらしいから春に行くことにするかなぁ。でも参拝は早ければ早いほどいいしなぁ。秋に神社経由で吉田口を6合目まで登って御中道コースで須走口に向かいキノコ料理を食べて下山ってのが無難なのかなぁ。
2010年1回目の富士登山記(1)
ちょうど天気もよさそうだし、富士総合火力演習のチケットも外れたようで悔しいしということで、21日・22日で吉田口から登ることにした。えっ? その資金を使って富士総合火力演習のチケットをオークションで落札すればよかっただろうって? まぁそういう考え方もある。でも転売屋を喜ばせるだけだからねぇ。抽選申し込みの厳格化がされたはずなのにこの出品数って何? こういうふざけた連中に金を払うのってなんか嫌。
とりあえず今回の目的は、高低差3000メートル越えを目指すことと、途中で寄り道をして、有名な『あの』神社にお参りに行くことの二つに設定。
普通吉田口登山というと富士吉田駅を出発点とするわけだが、富士吉田駅の標高は809メートル。ここから剣ヶ峰まで登っても高低差は3000メートルには届かない。ということで、標高753メートルの下吉田駅を出発点とする。下吉田駅の近くには小室浅間神社もあるし。
ということで下吉田駅には8時ちょうどに到着。当然のことだけどこんなところで降りる登山者は私だけ。まずは小室浅間神社に向かう。

ちなみにこの小室浅間神社は『下浅間』と呼ばれ、『上浅間』と呼ばれる北口本宮富士浅間神社と対の関係にあるように思われているが、直接関係はないらしい。単に上吉田地区にある浅間神社、下吉田地区にある浅間神社を区別してるだけらしい。
参拝して登頂祈願。
ちなみにこの小室浅間神社は流鏑馬でも有名のようで、境内でそのための馬が飼われている。

中央競馬会から奉納された馬らしいけど、競走馬時代の名前は何だったんだろう?
さて、国道139号線(通称:富士みち)を進んでいく。しばらく行くと見えてくるのが金鳥居。吉田口を富士吉田駅から登り始めるときの実質的な出発点である。

鳥居の奥に富士山が見える。下の方は雲に覆われているようだが、ここから鳥居越しに富士山が見えるということはそれほど天気は悪くならないだろうと期待する。
金鳥居をくぐりさらに進み、旧鎌倉往還(138号線)にぶつかったら左折。北口本宮富士浅間神社はもうすぐである。しかしまずは浅間神社には向かわず、さらに南東に向かって進む。向かう先は新屋山神社の里宮。今回の目的地の一つはこの神社の奥宮なのだが、先に里宮にもご挨拶しておくのが筋というものだろう。

この神社に限らず山神社のご祭神は大山祇命。富士山の神様である木花之佐久夜毘売命のお父上である。鳥居の連なる参道を通って参拝。
そののち来た道を戻って北口本宮富士浅間神社へ。ちなみにここまでもずっと晴れて太陽の照りつける中を歩いてきたのだが、須走のふじあざみラインのときのようなきつさは感じない。秋に近づいたことによって日差しが柔らかくなっているのだろうか。なんにしても須走のときよりも距離・高低差ともに長い距離を歩く予定なのだから、体力を消耗せずに進めるのはありがたい。
そして北口本宮富士浅間神社に到着。杉や檜の大木の並ぶ参道を進む。

この鳥居には『三国第一山』と書いてある。日本一と言わず三国一=世界一とは大きく出たものである。しかし山は高さがすべてではない。富士山が世界一だと思っても間違いとは言い切れないだろう。
ちなみにここの手水舎の水は富士山の湧水らしい。最近の神社では水道水のところも多いようだが、やはり神社では天然水のほうがありがたみがある。こういう豊かな自然を感じられる神社って好きだなぁ。
参拝ののち、案内に沿って右奥に進む。

この富士山と書かれた鳥居が登山道の入り口である。階段を上ってこの鳥居をくぐったところにあるのが祖霊社。富士信仰の先駆者たちの御霊を祀っているようだ。ここにもお参りし、いよいよ登山開始。時間は10時30分。
ほんのちょっと(3・4分)進むと大塚丘に着く。

地図によっては大塚山と表記されているようだが、ここは日本武尊が富士山を遥拝した場所で、この場所に造られた浅間神社を、のちになって北東の位置に遷したのが北口本宮富士浅間神社の始まりとされている。
昔はここからも富士山が見えたのだろうけれども、今は木に覆われていて見えない。
大塚丘を後にしてすぐに看板が見えてくる。

ここから先は吉田口登山道(車道)と吉田口遊歩道(歩道)がほぼ並行してあるらしい。まぁ車道を歩いても良いって言えば良いんだけれども、せっかく遊歩道も整備されてるんだからそっちを歩くことに。
そして遊歩道の入口。

早速歩きはじめる。しばらく行くと上から来る人とすれ違うが、かなりの軽装。富士山から下りてきたわけではなく、この辺を軽く散歩しているだけなのだろう。
しかしそれっきり人と会わない。麓からの登山口としてはメジャーな吉田口ではあるが、本当に麓から登る(or麓まで下る)人って意外と少ないのだろうか。それとも時間が違うのかな?
順調に進んできたのだが、東富士五湖道路をくぐったあたりで足に異常。右股関節に痛みが出始めた。まぁ、まだ大した痛みでもないので、様子を見ながら進むことにする。
そんなこんなで中の茶屋には12時に到着。足の痛みを気にしながらの行程だったにもかかわらず浅間神社からここまで1時間半。標準タイムでついてしまった。

本当はここで蕎麦でも食いながら休憩したいところだったのだが、あいにく店は開いてない。仕方がないので、行動食として持ってきている羊羹とお茶で休憩。
あたりを見回してみると、ここまで車で来て、ここに駐車して登り始める人がちらほら見かけられる。一応このさきの馬返しまでは車でも行けるはずだが、駐車スペースなどの関係でここから登ることにしたのかな?
足の痛みはだんだん増してきている。これでは登頂は無理だろう。しかし今回の目的の一つである神社は二合目相当。そこまでなら何とか頑張れないだろうか。
その神社はこの中の茶屋から滝沢林道を登ったところにある。しかし滝沢林道は曲がりくねっているから、結構な距離を歩かなければならない。それならばこのまま吉田口登山道を二合目までほぼまっすぐに登り、そこから細尾野林道を通って滝沢林道に抜けた方が楽だろう。というか最初からそのつもりで計画を立てたわけだし。
ちなみにこの細尾野林道沿いには、昔女性の登頂が禁じられていた時代の遥拝所である『女人天上』っていうのもあるらしい。そういうのも見物したいし。
ということで出発したのだが、20分ばかり進んだところで、痛みが非常に強くなり、先に進めなくなってしまった。正確に言うと登り方向には足が進められない=腿を少しでも上げると痛むが、腿をそれほど上げなくても済む下り方向なら何とか進める状態。ちなみに後ろ向きになら登れることは登れるけれども、長距離後ろ向きに歩くというのは現実的ではないし、後ろ向きでも登ることができなくなるまで足を酷使したら、自力で降りることも不可能になるだろう。股関節ではなく膝関節の痛みだったらまだ何とかなったんだけれどもねぇ。膝痛との付き合いはもうそれなりになるから、それなりに歩き方のコツみたいなものが身についていると思うし。
仕方がないので泣く泣く撤退を決断。中の茶屋で待っていればタクシーも通るだろうから、タクシーで滝沢林道を上って神社に向かうことも考えたが、乗車料金がどのくらいかかるか怖いので断念。
話は変わるが、この中の茶屋の上へも吉田口登山道と吉田口遊歩道の二本(滝沢林道も含めると三本)が伸びているのだが、舗装されている方(多分こっちが登山道)のみならず、未舗装の方(多分遊歩道)も車が走っているってのはどうなんだろう。車に煩わされることなく歩くことができるのが遊歩道だろう。こんなに普通に車が通っていたら遊歩道の意味がないではないか。登山道も遊歩道も道幅がそれほどないため、車同士のすれ違いを避けようとしているのかもしれないが(なんか知らないけれども、舗装道のほうではやたらと大型のミキサー車が通ってたし)、歩行者にとっては迷惑な話である。
結局今回は一合目まですら登れなかった。今回の脚部不具合の原因であるが、正確なところは分からないが、思い当たる節はないこともない。
須走からの登山の際、土踏まずの痛みでゆっくりとしか進めなかったわけであるが、今回そうした土踏まずの痛みを防止して、少しでも楽に登るために、あらかじめテーピングをしておいたのだ。このテーピングのせいで、足全体の筋肉の使い方に微妙な変化が起こり、その変化が負担という形で股関節に集中してしまったのではなかろうか。それ以外、今までの登山・ハイキングと違うことはやっていないのだから。
そうだとすれば、股関節の痛みでは登頂できないが土踏まずの痛みでは登頂実績がある以上、テーピングをやめた方がよいということになろうか。まぁテーピングのせいかどうか、何回か実験をしてみてから判断するとしよう。どうせ富士登頂を目指すのは来年の夏までお預けになるだろうから。それまでに街中や近所の低山で実験する時間は十分にある。
さて、吉田口で登頂を目指すのは来年でもよいとして、神社の方にはもっと前に行きたいなぁ。二合目なら夏に限らず登ることはできる。しかし冬の間は道が閉鎖されちゃうんだっけ?
タクシーを使っていくのが楽だとは思うんだけど、料金が心配。どなたか一緒に参拝に行きませんか?複数人で割り勘にすればタクシー料金も気にならない程度に抑えられるんじゃないかと思うんだけど。
一人で行くんならやっぱり歩きだなぁ。これまた結構先の話になっちゃうけど、中の茶屋付近はフジザクラの群生地などもあるらしいから春に行くことにするかなぁ。でも参拝は早ければ早いほどいいしなぁ。秋に神社経由で吉田口を6合目まで登って御中道コースで須走口に向かいキノコ料理を食べて下山ってのが無難なのかなぁ。
2010年1回目の富士登山記(1)
日本オワッタ…?
まずはこの記事を見てほしい。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100819-OYT1T00997.htm?from=y10
菅首相が自衛隊制服組トップたちと会談をしたニュースなわけだが、その記事の中にこんな一文が。
『
ただ、首相はこの日、会談に同席した北沢防衛相に、「昨日予習したら大臣は自衛官ではないんですね」などと発言。防衛省関係者は、「首相は防衛相が文民である意味を理解していなかったのではないか」と首をかしげた。
』
為政者たるもの国防に関する知識がなくては務まらない。そうはいっても専門家の経験や知識量にはかなわない。だからこそ専門家との緊密な連携をとって補佐させることが必要なわけだが、菅首相はひどすぎないか?
軍事知識がないのは、戦後日本の教育を考えれば仕方がない面はあるものの、それを支える法知識が欠如してるってのはどうなんだろう。というか文民統制ってのは基本中の基本だろう。アンタいったい何年政治家やってるんだよ。
それすら理解できてない人間が全軍の指揮官? 何の冗談だろう。
国を滅ぼすのは軍部の暴走よりも、こういう国防に関して技術的なことも法的なことも理解していない人間が、政治主導の名のもとにむちゃな命令を出して自軍に壊滅的打撃を与えてしまったり、国際法上問題ある行為をさせちゃったりすることのほうなのではなかろうか。
軍事に限ったことではない。『権力を憎むものが権力を握ると最悪の権力になる』なんて言葉もある。権力を憎むものは権力の行使の仕方についての知識もなく、身についていないため、自らの権力行使に歯止めがきかず、暴走してしまう。
市民活動家上がりの菅首相は権力も嫌いだったろうし軍事についても嫌いだったのだろう。権力の行使の仕方も軍事力の行使の仕方も理解してない者が首相として政治権力の頂点に立ち、全軍の指揮官であるなど、悪夢以外の何物でもない。
まぁトップはこんなでたらめだが、国防について明るいニュースもある。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100819-00000023-yom-pol
今年12月、新たに策定した沖縄・南西諸島の防衛警備計画に基づき、陸海空自衛隊による初の本格的な離島奪回訓練を実施するとのこと。
『
これまで防衛省は、周辺国への政治的な配慮などから、離島を想定した大規模な訓練を控えてきた。だが今年3、4月の2度にわたって、中国海軍の艦隊が同諸島の周辺海域で大がかりな訓練や挑発行動を繰り返すなど、ここ数年、中国海空軍の活動は活発化しており、日本にとって相当な脅威となってきていた。
防衛省幹部は「中国に対し、日本は南西諸島を守りきる意思と能力があることを示す。それが抑止力となる」と訓練の目的を説明する。
』
周辺国への配慮から、最も必要な訓練を今までやってこなかったというのも、世界の常識からいえばあり得ない状況だったと思うのだが、それがようやくまともな対応ができるようになったのであればめでたいことである。とはいってもすでに占領されちゃってる島を奪還することまでは考えてないんだろうねぇ。
でも、中韓べったりの菅政権がよくこんな訓練を許可したものである。いや、これから難癖付けて潰すつもりなのか? いやいや、米軍との共同演習な以上、そう簡単には潰せないか? でも、米軍と話が付いていた案件をひっくり返した普天間問題のような負の実績があるからなぁ…。
まぁなんにしても、離島奪還訓練は、今回だけなどと言わずに定期的に行っていってほしいものである。
最近の中国では
http://mainichi.jp/select/world/news/20100818ddm001030020000c.html
のような妙な言説が出てきているらしい。学者のいってることで中国政府の公式見解ではないものの、中国政府が野放しにしている言説である以上、いつ公式見解に変わるかわかったものではない。沖縄も中国のものだというのが公式見解となったら、やはり武力で奪いに来るだろうからねぇ。
しかし中国の学者の言うとおり琉球併合や沖縄の日本への返還が国際法上無効だったとしても、沖縄は琉球王国のものであるか、占領したアメリカのものであって、どこをどう考えても支那のものではない。それでなんで「沖縄を中国に返還せよ」って結論が導かれるんだろう?
こんな寝ぼけたことを言っている国がある=まさに沖縄が狙われているというのに、その肝心の沖縄県民が、沖縄防衛の基礎を壊そうとしているのは皮肉なものである。沖縄には日本本土・米軍への反発から親中国的な感情も生まれつつあるというが、中国に占領された後になって、「やっぱり日本・米軍のほうがマシだった」などと言ってももう遅いということをしっかり自覚してもらいたいものである。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100819-OYT1T00997.htm?from=y10
菅首相が自衛隊制服組トップたちと会談をしたニュースなわけだが、その記事の中にこんな一文が。
『
ただ、首相はこの日、会談に同席した北沢防衛相に、「昨日予習したら大臣は自衛官ではないんですね」などと発言。防衛省関係者は、「首相は防衛相が文民である意味を理解していなかったのではないか」と首をかしげた。
』
為政者たるもの国防に関する知識がなくては務まらない。そうはいっても専門家の経験や知識量にはかなわない。だからこそ専門家との緊密な連携をとって補佐させることが必要なわけだが、菅首相はひどすぎないか?
軍事知識がないのは、戦後日本の教育を考えれば仕方がない面はあるものの、それを支える法知識が欠如してるってのはどうなんだろう。というか文民統制ってのは基本中の基本だろう。アンタいったい何年政治家やってるんだよ。
それすら理解できてない人間が全軍の指揮官? 何の冗談だろう。
国を滅ぼすのは軍部の暴走よりも、こういう国防に関して技術的なことも法的なことも理解していない人間が、政治主導の名のもとにむちゃな命令を出して自軍に壊滅的打撃を与えてしまったり、国際法上問題ある行為をさせちゃったりすることのほうなのではなかろうか。
軍事に限ったことではない。『権力を憎むものが権力を握ると最悪の権力になる』なんて言葉もある。権力を憎むものは権力の行使の仕方についての知識もなく、身についていないため、自らの権力行使に歯止めがきかず、暴走してしまう。
市民活動家上がりの菅首相は権力も嫌いだったろうし軍事についても嫌いだったのだろう。権力の行使の仕方も軍事力の行使の仕方も理解してない者が首相として政治権力の頂点に立ち、全軍の指揮官であるなど、悪夢以外の何物でもない。
まぁトップはこんなでたらめだが、国防について明るいニュースもある。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100819-00000023-yom-pol
今年12月、新たに策定した沖縄・南西諸島の防衛警備計画に基づき、陸海空自衛隊による初の本格的な離島奪回訓練を実施するとのこと。
『
これまで防衛省は、周辺国への政治的な配慮などから、離島を想定した大規模な訓練を控えてきた。だが今年3、4月の2度にわたって、中国海軍の艦隊が同諸島の周辺海域で大がかりな訓練や挑発行動を繰り返すなど、ここ数年、中国海空軍の活動は活発化しており、日本にとって相当な脅威となってきていた。
防衛省幹部は「中国に対し、日本は南西諸島を守りきる意思と能力があることを示す。それが抑止力となる」と訓練の目的を説明する。
』
周辺国への配慮から、最も必要な訓練を今までやってこなかったというのも、世界の常識からいえばあり得ない状況だったと思うのだが、それがようやくまともな対応ができるようになったのであればめでたいことである。とはいってもすでに占領されちゃってる島を奪還することまでは考えてないんだろうねぇ。
でも、中韓べったりの菅政権がよくこんな訓練を許可したものである。いや、これから難癖付けて潰すつもりなのか? いやいや、米軍との共同演習な以上、そう簡単には潰せないか? でも、米軍と話が付いていた案件をひっくり返した普天間問題のような負の実績があるからなぁ…。
まぁなんにしても、離島奪還訓練は、今回だけなどと言わずに定期的に行っていってほしいものである。
最近の中国では
http://mainichi.jp/select/world/news/20100818ddm001030020000c.html
のような妙な言説が出てきているらしい。学者のいってることで中国政府の公式見解ではないものの、中国政府が野放しにしている言説である以上、いつ公式見解に変わるかわかったものではない。沖縄も中国のものだというのが公式見解となったら、やはり武力で奪いに来るだろうからねぇ。
しかし中国の学者の言うとおり琉球併合や沖縄の日本への返還が国際法上無効だったとしても、沖縄は琉球王国のものであるか、占領したアメリカのものであって、どこをどう考えても支那のものではない。それでなんで「沖縄を中国に返還せよ」って結論が導かれるんだろう?
こんな寝ぼけたことを言っている国がある=まさに沖縄が狙われているというのに、その肝心の沖縄県民が、沖縄防衛の基礎を壊そうとしているのは皮肉なものである。沖縄には日本本土・米軍への反発から親中国的な感情も生まれつつあるというが、中国に占領された後になって、「やっぱり日本・米軍のほうがマシだった」などと言ってももう遅いということをしっかり自覚してもらいたいものである。
終戦記念日
今日の不謹慎動画。
ということで今日は終戦記念日である。
とはいっても本来は8月15日というのは終戦の日でもなければ敗戦の日でもない。終戦の日はサンフランシスコ講和条約が発効した4月28日。停戦の日とするならば降伏文書に調印した9月2日。
8月15日というのは先帝陛下がラジオを通して、国民に対して「平和な世の中を作っていこう」と呼びかけられた日である。その手段として敗戦という形を受け入れるとしただけであって、ご発言の趣旨は敗戦の事実を知らせることというよりは、新しい時代への決意表明という側面が強いように聞こえる。
つまり上記動画の、8月15日を『忌まわしい』と評する替え歌の歌詞は、先帝陛下の大御心を否定するものであり、その意味において不謹慎であろう。
しかしながら、この替え歌作者(動画の投降者ではなくて作家の吉岡平氏だっけ?)が考えたのとは別の意味において8月15日は忌まわしい日となりそうである。菅左翼政権により、平和を祈念する日が特定のアジア諸国に対する謝罪を行う日にすり替えられようとしているのだ。事実に基づかない謝罪談話を出してみたり、閣僚全員に靖国参拝の自粛を求めたり。その辺のことは繰り返して述べるまでもないことであろう。
事実に基づかない戯言によって外国に屈服する日。
事実に基づかない戯言というのは先帝陛下の求められた平和をも危うくするのではなかろうか。たとえば病気が何であるかしっかり見極めて適切な治療法を施さなければ病気が治らないばかりか、下手をすれば悪化させてしまうだろう。事実に基づかない戯言をもとにろくでもない行動をとるというのは、何の病気かを見極めることなくでたらめな治療法を施すようなもの。平和を創出するどころか平和を壊してしまうのが関の山だろう。
これを忌まわしいと評さずして何を忌まわしいというのだろう。
さて、靖國神社についてもう少し考えてみよう。
菅首相をはじめとして、「A級戦犯が祀られているから参拝しない」という声は少なからずあるらしい。そしてその声に押される形で分祀論が出されている。
この分祀論、靖国参拝推進派も反対派も誤解している部分があるうえに、靖國神社・神社本庁もその誤解に対する適切な回答をしているとはいえないように見える。私なりの解釈も相当含まれているが細かく見てみよう。
まず誤解の原因となっているのが、「246万6532柱の方々をお祀りしている」という表現である。というか靖國神社自体がこういう表現を使っている。この表現だと246万以上の戦没者の方々それぞれをお祀りしているように感じてもおかしくない。霊璽簿という、合祀された方々の名簿が存在していることもまたその誤解に拍車をかけている。
それぞれを祀っているのならばそこから特定の御霊を抜き出すこともできるだろうと考えてしまうわけである。
しかし靖國神社のご祭神って、靖國大神という神様のはず。『戦没者の御霊』をお祀りしているのではなく靖國大神という『神霊』をお祀りしているという位置づけだったはず。
で、この靖國大神というのが246万6532柱の御霊の集合体なのである。246万6532柱の戦没者の『御霊』がとけあって靖國大神という『神霊』を形作っていると言ったところであろうか。とにかく靖國神社は戦没者それぞれを祀っているわけではないのである。
もちろん遺族などが参拝に来たときに、この靖國大神は靖國大神として参拝者の前に現れるわけではなく、それぞれの戦没者の形をとって現われてくださる。しかし姿はどうあれ、参拝者の前に現れてくださるのはそれぞれの戦没者の御霊そのものではなく、あくまでも戦没者の御霊の集合体である靖國大神なのである。戦没者それぞれの御霊も靖國神社にとっては非常に重要な存在ではあるのだが、重要な存在というのと直接お祀りしているというのでは全然違う。
さて、その靖國大神の神霊の中から特定の誰かの御霊を抜き出すことができるだろうか。たとえで考えてみよう。
水のいっぱい入った水槽を思い浮かべてほしい。そこに新たに一滴の水を垂らしたとしよう。新たな一滴はすぐに元から水槽に入っていた水と混ざってしまう。その混ざってしまった水の中から『もとと同じ』一滴を取り出すことができるだろうか。確かに同じ一滴『分』の水をとりわけることはできる。しかしそれはあくまでも同じ分量というだけであって、同じ分子からなる同じ一滴ではありえないことはすぐにわかるだろう。
それと同じで、一度合祀されて靖國大神の一部になってしまった御霊を分離などできるわけがないのである。
しかし靖國神社・神社本庁は分祀論に対して「大きなロウソクから火を分けても、元のロウソクの火は残る。『分祀』しても、元の神霊は残る。元の神霊も分霊(ぶんれい)もそれぞれ全神格を有する」というような説明をしている。これは分祀という用語の説明にはなっているものの、なぜ靖國大神の神霊の中から特定の誰かの御霊を抜き出すことができないのかという部分の説明にはなっていない。これでは誤解を解くことはできない。
おそらく靖國神社・神社本庁の言っていることというのは神道の専門家としては間違っていないのだろう。しかし説明を欲している一般国民は専門家ではないのである。一般の人にわかりやすい説明をするという点において全くなってない。私を靖國神社の広報担当者として雇ってもらえるならば、今の担当者よりは一般の人にわかりやすい説明をできる自信がある。まぁ反対派はどんなに分かりやすい説明をされても理解するつもりはないだろうけどね。
ちなみに霊璽簿についてもう少し。
霊璽簿というのは、氏名、軍における所属・階級、位階、勲等などを記載した紙で、まず招魂祭によって各地で散った戦没者の御霊をこの紙に呼び寄せる。そうして呼び寄せた御霊を合祀祭によって靖國大神の一部になっていただく。招魂祭から合祀祭までの間は確かに霊璽簿にそれぞれの戦没者の御霊が宿っているわけだが、合祀が済んでしまえば御霊は霊璽簿から神座に移り、霊璽簿にはもう御霊は残っていない。合祀が済んだ後の霊璽簿は、いつ誰を合祀したのかの単なる記録でしかなくなるわけである。だから霊璽簿から特定の戦没者の名を抹消したところで、靖國神社に祀られている靖國大神には何の影響もないのである。
先ほどの水槽のたとえでいえば、混ぜた一滴がどこで採取されたものか、それをいつ混ぜたのかといった記録が霊璽簿に相当する。その記録を消したところで、混ぜたという事実は変わらない。
だから霊璽簿から名前を消せば簡単に分祀できるなどというのは勉強不足の妄言である。
今回も靖國神社に行ってきた。私の場合は8月15日に限らず、近くに行く用事があれば参拝しているのであるが、やはり8月15日というのは特別な気がする。ちょうどお盆の時期だしね。まぁ、東京のお盆は7月中頃であり、実際靖國神社のお盆である『みたままつり』も7月に行われているんだけどね。
今年は例年に比べて混雑が激しいように感じた。例年なら即日で参拝者数が発表されていたように記憶しているのだが、今年はいまだその発表を目にしていない。でも参拝者数が例年より多かったのではないかと思う。
菅左翼政権の閣僚が全員不参拝を決めて特定アジア諸国に媚を売ったにもかかわらず、一般国民の参拝者数が増えたのであれば皮肉なものである。国民意識とは逆方向に動こうとしている左翼政権には早々にお引き取り願いたいものである。
ということで今日は終戦記念日である。
とはいっても本来は8月15日というのは終戦の日でもなければ敗戦の日でもない。終戦の日はサンフランシスコ講和条約が発効した4月28日。停戦の日とするならば降伏文書に調印した9月2日。
8月15日というのは先帝陛下がラジオを通して、国民に対して「平和な世の中を作っていこう」と呼びかけられた日である。その手段として敗戦という形を受け入れるとしただけであって、ご発言の趣旨は敗戦の事実を知らせることというよりは、新しい時代への決意表明という側面が強いように聞こえる。
つまり上記動画の、8月15日を『忌まわしい』と評する替え歌の歌詞は、先帝陛下の大御心を否定するものであり、その意味において不謹慎であろう。
しかしながら、この替え歌作者(動画の投降者ではなくて作家の吉岡平氏だっけ?)が考えたのとは別の意味において8月15日は忌まわしい日となりそうである。菅左翼政権により、平和を祈念する日が特定のアジア諸国に対する謝罪を行う日にすり替えられようとしているのだ。事実に基づかない謝罪談話を出してみたり、閣僚全員に靖国参拝の自粛を求めたり。その辺のことは繰り返して述べるまでもないことであろう。
事実に基づかない戯言によって外国に屈服する日。
事実に基づかない戯言というのは先帝陛下の求められた平和をも危うくするのではなかろうか。たとえば病気が何であるかしっかり見極めて適切な治療法を施さなければ病気が治らないばかりか、下手をすれば悪化させてしまうだろう。事実に基づかない戯言をもとにろくでもない行動をとるというのは、何の病気かを見極めることなくでたらめな治療法を施すようなもの。平和を創出するどころか平和を壊してしまうのが関の山だろう。
これを忌まわしいと評さずして何を忌まわしいというのだろう。
さて、靖國神社についてもう少し考えてみよう。
菅首相をはじめとして、「A級戦犯が祀られているから参拝しない」という声は少なからずあるらしい。そしてその声に押される形で分祀論が出されている。
この分祀論、靖国参拝推進派も反対派も誤解している部分があるうえに、靖國神社・神社本庁もその誤解に対する適切な回答をしているとはいえないように見える。私なりの解釈も相当含まれているが細かく見てみよう。
まず誤解の原因となっているのが、「246万6532柱の方々をお祀りしている」という表現である。というか靖國神社自体がこういう表現を使っている。この表現だと246万以上の戦没者の方々それぞれをお祀りしているように感じてもおかしくない。霊璽簿という、合祀された方々の名簿が存在していることもまたその誤解に拍車をかけている。
それぞれを祀っているのならばそこから特定の御霊を抜き出すこともできるだろうと考えてしまうわけである。
しかし靖國神社のご祭神って、靖國大神という神様のはず。『戦没者の御霊』をお祀りしているのではなく靖國大神という『神霊』をお祀りしているという位置づけだったはず。
で、この靖國大神というのが246万6532柱の御霊の集合体なのである。246万6532柱の戦没者の『御霊』がとけあって靖國大神という『神霊』を形作っていると言ったところであろうか。とにかく靖國神社は戦没者それぞれを祀っているわけではないのである。
もちろん遺族などが参拝に来たときに、この靖國大神は靖國大神として参拝者の前に現れるわけではなく、それぞれの戦没者の形をとって現われてくださる。しかし姿はどうあれ、参拝者の前に現れてくださるのはそれぞれの戦没者の御霊そのものではなく、あくまでも戦没者の御霊の集合体である靖國大神なのである。戦没者それぞれの御霊も靖國神社にとっては非常に重要な存在ではあるのだが、重要な存在というのと直接お祀りしているというのでは全然違う。
さて、その靖國大神の神霊の中から特定の誰かの御霊を抜き出すことができるだろうか。たとえで考えてみよう。
水のいっぱい入った水槽を思い浮かべてほしい。そこに新たに一滴の水を垂らしたとしよう。新たな一滴はすぐに元から水槽に入っていた水と混ざってしまう。その混ざってしまった水の中から『もとと同じ』一滴を取り出すことができるだろうか。確かに同じ一滴『分』の水をとりわけることはできる。しかしそれはあくまでも同じ分量というだけであって、同じ分子からなる同じ一滴ではありえないことはすぐにわかるだろう。
それと同じで、一度合祀されて靖國大神の一部になってしまった御霊を分離などできるわけがないのである。
しかし靖國神社・神社本庁は分祀論に対して「大きなロウソクから火を分けても、元のロウソクの火は残る。『分祀』しても、元の神霊は残る。元の神霊も分霊(ぶんれい)もそれぞれ全神格を有する」というような説明をしている。これは分祀という用語の説明にはなっているものの、なぜ靖國大神の神霊の中から特定の誰かの御霊を抜き出すことができないのかという部分の説明にはなっていない。これでは誤解を解くことはできない。
おそらく靖國神社・神社本庁の言っていることというのは神道の専門家としては間違っていないのだろう。しかし説明を欲している一般国民は専門家ではないのである。一般の人にわかりやすい説明をするという点において全くなってない。私を靖國神社の広報担当者として雇ってもらえるならば、今の担当者よりは一般の人にわかりやすい説明をできる自信がある。まぁ反対派はどんなに分かりやすい説明をされても理解するつもりはないだろうけどね。
ちなみに霊璽簿についてもう少し。
霊璽簿というのは、氏名、軍における所属・階級、位階、勲等などを記載した紙で、まず招魂祭によって各地で散った戦没者の御霊をこの紙に呼び寄せる。そうして呼び寄せた御霊を合祀祭によって靖國大神の一部になっていただく。招魂祭から合祀祭までの間は確かに霊璽簿にそれぞれの戦没者の御霊が宿っているわけだが、合祀が済んでしまえば御霊は霊璽簿から神座に移り、霊璽簿にはもう御霊は残っていない。合祀が済んだ後の霊璽簿は、いつ誰を合祀したのかの単なる記録でしかなくなるわけである。だから霊璽簿から特定の戦没者の名を抹消したところで、靖國神社に祀られている靖國大神には何の影響もないのである。
先ほどの水槽のたとえでいえば、混ぜた一滴がどこで採取されたものか、それをいつ混ぜたのかといった記録が霊璽簿に相当する。その記録を消したところで、混ぜたという事実は変わらない。
だから霊璽簿から名前を消せば簡単に分祀できるなどというのは勉強不足の妄言である。
今回も靖國神社に行ってきた。私の場合は8月15日に限らず、近くに行く用事があれば参拝しているのであるが、やはり8月15日というのは特別な気がする。ちょうどお盆の時期だしね。まぁ、東京のお盆は7月中頃であり、実際靖國神社のお盆である『みたままつり』も7月に行われているんだけどね。
今年は例年に比べて混雑が激しいように感じた。例年なら即日で参拝者数が発表されていたように記憶しているのだが、今年はいまだその発表を目にしていない。でも参拝者数が例年より多かったのではないかと思う。
菅左翼政権の閣僚が全員不参拝を決めて特定アジア諸国に媚を売ったにもかかわらず、一般国民の参拝者数が増えたのであれば皮肉なものである。国民意識とは逆方向に動こうとしている左翼政権には早々にお引き取り願いたいものである。
2010年1回目の富士登山記(3) 無理せずゆっくり …ゆっくりしすぎた
前回まででようやく須走口五合目に到着。ようやく一般の登山客のスタートラインに到着ということである。
今回の行程では、この五合目までの道のりがメイン。極論すれば、五合目まで歩ければ今回の目的の大半を果たしたことになる。もちろんせっかくだから五合目で帰るなんてことをせずに登頂を目指すわけだが、五合目以上はすでに多くの方がレポートしている部分なうえ、今回大部分が夜間登山で、風景を楽しむような状況でもなかったことから、今回の記事はそんなに詳しく書くことはないかもしれない。
さて、東富士山荘での食事休憩を終え、17時30分に出発。雨の中なので雨具着用。
登り始めるにあたり、私の体の状態を書いておくと、やはり足に相当ダメージを受けているようであった。腿やふくらはぎに筋肉痛・痙攣は出ていないのだが、土ふまずの部分が痛い。アーチ状になっている足の骨(というか骨を支えている腱)が体重を支えきれず悲鳴を上げてる状態。別に体重が重いと言ってるわけではない。荷物が重かったんだよ!! 長い距離歩いたからだよ!!
人魚姫ほどではないだろうけど、一歩歩くたびに痛みが走る。これではあまり早くは歩けない。やはり標準タイムより大幅に時間がかかりそうだ。
とにかくまずは古御嶽神社へ。

参拝して登山道へ。
しばらくすると雨がやむ。五合目を出発して20分ほどだろうか。これなら雨がやむまで待ってた方が良かったかな?
さらに進むが、やはり暑いので雨具を脱ぐことに。
足の痛みゆえにゆっくり歩く。ときどき後ろから来る人に道を譲りながらゆっくり進む。しかしこのころはまだ登山客はそれほど多くないので、道を譲るために立ち止まってもそれほど時間のロスはなかったように思う。
五合目と新六合目の中間くらいの登山道わきから富士山を眺める。

山頂まで見える。雲も見えないからもう雨も降らないだろう。しかし19時なのに結構明るいものだねぇ。
もっと登って暗くなってから、登山道を登る人のライトの列や、下山道を下るライトの列も撮影したんだけれど、設定を間違えたのかうまく写せなかった。
新六合目長田山荘には19時50分、本六合目瀬戸館には21時、七合目大陽館には23時20分に到着。それぞれで20分ほどの休憩をとる。本六合目あたりまでは、ゆっくりながらも一応は試算した時間からは大幅には遅れていない。
しかしその先がやたらと時間がかかってしまった。原因は、その頃になると登山者が増えてくるからである。頂上でのご来光を目指す人たちが動き出す時間になってしまたわけだ。
私はゆっくりしか歩けないのだから後ろに人が近づいてくれば道を譲る。その回数が増えればそれだけ時間のロスになる。しかもこのころになると団体さんも増えてくる。一人で歩いてる登山客に道を譲っても大して時間はかからないが、団体をやり過ごすとなるとやはり時間がかかる。しかも、せっかく私が道を譲る意図で脇によって立ち止っているのに、その私を取り囲むような形で座り込んで休憩を始める団体もいる。休憩してもいいけど私が抜け出すための隙間くらいあけといてくれよ!
しかもそういう団体って、遅れている仲間を待っているのか、なかなか出発しなかったりするんだもん。こういう時間のロスがあることは計算に入れてなかったなぁ。
あと休憩に関して一点。道で休憩する際、ライトはどうするのがいいんだろう。ライトを道に向け、足元を照らしてくれてる人もいれば、消している人もいる。私のライトはあんまり明るくなかったから足元を照らしてもらえるのは結構ありがたかったのだが、問題は、道を照らすわけでもなくライトを点灯したままおしゃべりしている連中である。
私のヘッドライトみたいにそれほど明るくないライトなら、点灯したままおしゃべりして、あちこちを向いてもそれほど邪魔にはならなかったかもしれない。しかしLEDのめちゃくちゃ明るいヘッドライトで、あちこち向いてのおしゃべりをされるのは迷惑以外の何物でもない。いきなり強い光がむけられたりすると目がくらむ。段差などで足元に注意しているときにいきなり強い光がむけられて目がくらんだらものすごく危険だと思う。
おしゃべりしてる本人たちは自分のライトがそんな迷惑をかけているなんて気づいてもいないだろう。意識的に登山者の顔に強い光を当ててるわけじゃないんだから。でもそうであるがゆえに厄介だと思う。おしゃべりに興じてあちこち向くのであればライトは消しておいてほしいものである。
この辺のマナーについては私は見たことがないのだが、是非このライト問題についてのマナーというものも決めて、普及してもらいたいものである。
そんなこんなで本七合目見晴館には1時30分に到着。この見晴館は真夜中にもかかわらず、売店が開いていた。この時間だと山小屋での補給ができないものと思っていただけにありがたい。早速水を購入。一応山小屋での補給はできないものと想定して大目に水分は担いできたが(その結果荷物が重くなったわけだが)、それでも水を新たに補給すると、気分的に結構安心感が増す。
補給ののちさらに上を目指す。足の痛みは続いているものの、全身の疲労感はむしろ軽減されたように感じる。なんでだろう?
足取り軽くとはいかないものの、それなりのペースは保って進む。それでもほかの人と比べるとゆっくり目かな。
八合目江戸屋には2時35分。富士山ホテルの下には3時15分に到着。五合目を起点とした場合、試算通りならそろそろ山頂についていなければならないころである。予定より大幅に遅れている。ここからさらに進んでも山頂付近の渋滞に巻き込まれて、日の出時間までに登りきることは絶対不可能である。それならば渋滞の中で窮屈な思いをしながらご来光を迎えるよりは、この場所でゆっくり足を休めながらご来光を待った方が無難であろう。まぁ、もう少し登って八合五勺御来光館位までなら行けたかもしれないけれども。
立ち止まってしばらくするとさすがに寒くなってくる。防寒着代わりに雨具は着用していたが、日の出までひと眠りするにはちょっと寒かったかな。仕方がないので夜食というか朝食というかの準備を始める。この時間、山小屋での食事はできないものと想定して、発熱材付きの非常食を用意しておいたのだ。やっぱりあったかいものを食べたいし。
要するに生石灰に水をかけて発熱させ、その熱で食品をあっためようという原理のものだと思う。だけど気温が低い吹きっさらしの場所での利用って想定されてなかったのかな? 気圧は関係ないよな?
約20分後に出来上がったものはそれほど温かくないうえに、ご飯などは、発熱材に近い部分はまぁ食べられる状態になっていたけれど発熱材から遠かった部分はかたくてぽろぽろした状態。はっきりいっておいしくない。まぁもったいないし、食べ残してもそれを背負っておりなければならないのだから食べたけどね。
別のメーカーのものだったらうまくいったのかな? 少なくとも加熱容器が袋状のものよりかは箱状のもののほうがうまくいきそうな印象は受ける。今回は非常食で見つくろって購入したけど、今後はミリメシで見つくろってみようかな。もう一袋非常食は残ってるけど。
そんなこんなで4時40分。そろそろ日の出時間。眼下に広がる雲海もだいぶ明るくなってくる。
周りの人たちの様子を見てみる。

写真では山小屋群の付近しかよくわからないけれども、頂上までの渋滞のみならず、下山道も人でいっぱい。下山する前にご来光を迎えようって人がたくさんいたのだろう。
そして4時45分ころ。

雲海から昇る太陽。頂上からというわけにはいかなかったが十分きれい。
ご来光を迎えた後、さらにもうしばらく足を休め、5時30分出発。6時には八合五勺御来光館に到着。どんどん進みたいところであるが、上を見るとこんな状態。

九合目より上は渋滞で列が動いているようには見えない。ご来光待ちの人たちが通り過ぎれば少しは渋滞は解消されるのであろうか。気温もあたたかくなってきたことだし、仮眠をとりながら待ってみることにする。
しかし7時になっても様子は変わらないように見える。いつまで待てばよいのかわからない以上、いつまでもその場にいても仕方がない。出発する。
九合目には7時35分に到着。渋滞の列の後ろに並ぶ。頂上はすぐそこに見えるのになかなか進まない。
このとき気になったのが渋滞を無視して無理やりすり抜けていこうとする馬鹿者のことである。道幅に余裕があるわけでもないところを無理やり通ろうとするものだから路肩が崩れる。これって落石を引き起こす危険な行為だと思う。この無理な追い越しのために落石事故が起きたらどう責任を取るつもりなのだろう。こういう不作法者は富士山のみならず山に登っちゃだめだと思う。
そして8時42分。

この鳥居をくぐれば頂上はすぐそこである。
8時45分頂上到着。

久須志神社に参拝ののち、山小屋の裏手に回り込み、火口の際で一休み。
付近には自衛隊の一団がいる。そういえば登っている最中にも何度か自衛隊のグループを見かけた。『火』って旗はどこの部隊だろう。自衛隊の部隊の略称ってよく知らないので今度調べておこう。
しばらく休憩ののち、富士宮口頂上の浅間大社奥宮を目指して移動開始。

火口越しに剣ヶ峰を眺めたりしながら進む。
浅間大社奥宮前には9時40分ころ到着。参拝する。しかし昨年あった、皇紀二六〇〇年の戦勝祈願の石がなくなっている。わざわざ頂上まで来た目的の一つだったのに…。どこかにしまっちゃったのかな?
目的の一つがなくなっていたということですっかり気落ち。どっと疲れが出る。剣が峰に登る気力もない。この状態では下山にも支障がありそうなので、さらに仮眠をとって少しでも体力を回復させることに。
しかし頂上は紫外線が強い。もう照りつけられると暑いというよりも痛いって感じ。息苦しくなったり高山病になったりしないけれども、この紫外線の強さで空気の薄さが実感できる。でもそんな中でもタオルをかぶって仮眠。このとき締め付けられる感じがいやで手袋をはずしていたんだが、その短時間で手が日焼けしちゃった。
11時に下山開始。御殿場口頂上に向かう。富士宮口頂上から御殿場口頂上までの間には非常に多くの自衛隊員がいる。戦車教導隊の旗や第一特科隊の旗などが見える。ヘルメットに落下傘マークが描かれているのは空挺部隊。富士学校の幹部レンジャー課程に来ている人たちであろうか。精鋭中の精鋭だね。
で、この自衛隊の方々は別に遊びに来ているわけではなくて、この8月1日に行われた『富士登山駅伝』の運営の為に来ていたのかな?まぁ全員が全員運営に携わっていたのかどうかは分からないけど。自分の部隊のチームを応援に来ているだけってのもいたと思う。
で、この富士登山駅伝って御殿場口登山道で行われているのだ。そう、私が今回下山ルートに使う予定の場所である。別に一般登山客の通行がとどめられているわけではないようなので予定通り下山することにする。

下山はこんな感じ。駅伝の走者が来るたびに登山客は脇によけて走者を通す。
しかしこの登山駅伝のことは知らないまま行ったわけであるが、出場団体の数はせいぜい十数団体だと思ってた。だからそれさえやり過ごせば普通に降りられると思っていた。私が下山を始める前にそれなりの数のチームが山頂で折り返してたみたいだから、もうすぐ駅伝走者は全員通り過ぎて、普通に通行できるようになるとばかり思っていた。しかし実際には参加団体は百以上あったらしい。いつまでたっても駅伝は終わらない。とにかくちょうど下山しようとしている自衛隊の一団がいたので、それについていくことにする。
走者がいつまでたっても掃けないから、走者に道を譲った後、次の走者が来るまでの短い時間に駆けおりる。で、次の走者が来たら止まって脇によける。その繰り返し。「だるまさんがころんだ」状態。
自衛隊と一緒に行動したおかげで、そのタイミングはつかみやすい。人数が多いし声も大きいから、前方から「登り走者きます」とか後方から「下り走者来るよ!進路開放!」とかの合図が飛び交い、余裕を持ってよけることができる。おまけに無線で話してるのも聞こえるから「最終走者(ビリ)の番号ってわかりますか?」「最終走者は○○番です」なんて交信も聞ける。そういうのを聞くと、最終走者とどこですれ違うかわくわくしながら降りるという楽しみも加わる。
さてこのだるまさんがころんだ。楽しいって言えば楽しいんだけれど、本当なら足をいたわりながらゆっくり降りたいのに駆けおりようっていうのだから足の負担が半端じゃない。結局このだるまさんがころんだは七合五勺砂走館近くまで続いた。
駅伝の最終走者をやり過ごしたのち、砂走館に到着したのが12時40分。昨年ここに宿泊した時に聞いたとおり、8月8日で閉館。来年リニューアルするらしい。事実上この日は登山駅伝のための基地状態で、通常営業している雰囲気ではなかったけど、山小屋前のベンチはあいていたのでここで休憩。
休憩後さらに下って七合目で下山道に入る。このころから霧が濃くなってくる。霧の中を砂走の下山道を降りる。足への負担は多少は小さくなっているのだろうけど、すでに過度の負担がかかった後なので、それほど楽には感じない。
六合目付近で御殿場口下山道を離れて宝永山に向かう。とはいっても霧が濃くて景色なんて楽しめる状況ではないので宝永山山頂には向かわず、さっさと火口へ降りていく。去年登るのに苦労したこの道も下りでははるかに楽ではある。しかし足のダメージがすでに大きいため、ゆっくりとしか進めない。その同じ道を登っていく集団とすれ違う。霧の中御苦労なことである。この集団ってツアーっぽかったけど、プリンスルートで登頂を目指しているのかな?
火口底には14時15分にやっと到着。ここから富士宮口六合目まで登っていかなければならない。足にダメージがたまっている状況では、下りよりも登りのほうが体は楽なんだけれど、疲労が蓄積している状況では登りというだけで精神的に相当つらい。麓からの登山なんてむちゃをしていなければ去年のルートよりも、その逆コースである今年のほうがはるかに楽だと思えたのだろうけれども、今回は麓から登るなんてことで体力を消耗しちゃったからねぇ。
そんなこんなで六合目には14時55分に到着。ここまでくればあともう少しである。最後のひと踏ん張りで15時20分に五合目到着。何とか無事下山できたわけだ。到着したころに雨が降り出す。しかし後はバスに乗って降りるだけ。バスの時刻までレストハウスで休憩。
こんな感じで今回の富士登山は終わり。今回はいろいろ問題点も見つかったものの何とか麓からの登山ができたのだから、今回の問題点を踏まえて今後も麓からの富士登山をしていきたいと思う。
次回はメジャーな吉田口あたりを登って、下りは御殿場口オンリーで降りてみようかな。その次は須山口→富士宮口ルートかな。
まぁ、こう言うのって計画を立てるだけでも楽しいんだよね。次回に備えてまた情報収集を始めようかな。
それはそうと、富士山がらみのもう一つのイベント、富士総合火力演習のほうは、今回もはずれだったようだ。本当に誰か連れてってくれないかなぁ。
2010年1回目の富士登山記(1)
2010年1回目の富士登山記(2)
今回の行程では、この五合目までの道のりがメイン。極論すれば、五合目まで歩ければ今回の目的の大半を果たしたことになる。もちろんせっかくだから五合目で帰るなんてことをせずに登頂を目指すわけだが、五合目以上はすでに多くの方がレポートしている部分なうえ、今回大部分が夜間登山で、風景を楽しむような状況でもなかったことから、今回の記事はそんなに詳しく書くことはないかもしれない。
さて、東富士山荘での食事休憩を終え、17時30分に出発。雨の中なので雨具着用。
登り始めるにあたり、私の体の状態を書いておくと、やはり足に相当ダメージを受けているようであった。腿やふくらはぎに筋肉痛・痙攣は出ていないのだが、土ふまずの部分が痛い。アーチ状になっている足の骨(というか骨を支えている腱)が体重を支えきれず悲鳴を上げてる状態。別に体重が重いと言ってるわけではない。荷物が重かったんだよ!! 長い距離歩いたからだよ!!
人魚姫ほどではないだろうけど、一歩歩くたびに痛みが走る。これではあまり早くは歩けない。やはり標準タイムより大幅に時間がかかりそうだ。
とにかくまずは古御嶽神社へ。

参拝して登山道へ。
しばらくすると雨がやむ。五合目を出発して20分ほどだろうか。これなら雨がやむまで待ってた方が良かったかな?
さらに進むが、やはり暑いので雨具を脱ぐことに。
足の痛みゆえにゆっくり歩く。ときどき後ろから来る人に道を譲りながらゆっくり進む。しかしこのころはまだ登山客はそれほど多くないので、道を譲るために立ち止まってもそれほど時間のロスはなかったように思う。
五合目と新六合目の中間くらいの登山道わきから富士山を眺める。

山頂まで見える。雲も見えないからもう雨も降らないだろう。しかし19時なのに結構明るいものだねぇ。
もっと登って暗くなってから、登山道を登る人のライトの列や、下山道を下るライトの列も撮影したんだけれど、設定を間違えたのかうまく写せなかった。
新六合目長田山荘には19時50分、本六合目瀬戸館には21時、七合目大陽館には23時20分に到着。それぞれで20分ほどの休憩をとる。本六合目あたりまでは、ゆっくりながらも一応は試算した時間からは大幅には遅れていない。
しかしその先がやたらと時間がかかってしまった。原因は、その頃になると登山者が増えてくるからである。頂上でのご来光を目指す人たちが動き出す時間になってしまたわけだ。
私はゆっくりしか歩けないのだから後ろに人が近づいてくれば道を譲る。その回数が増えればそれだけ時間のロスになる。しかもこのころになると団体さんも増えてくる。一人で歩いてる登山客に道を譲っても大して時間はかからないが、団体をやり過ごすとなるとやはり時間がかかる。しかも、せっかく私が道を譲る意図で脇によって立ち止っているのに、その私を取り囲むような形で座り込んで休憩を始める団体もいる。休憩してもいいけど私が抜け出すための隙間くらいあけといてくれよ!
しかもそういう団体って、遅れている仲間を待っているのか、なかなか出発しなかったりするんだもん。こういう時間のロスがあることは計算に入れてなかったなぁ。
あと休憩に関して一点。道で休憩する際、ライトはどうするのがいいんだろう。ライトを道に向け、足元を照らしてくれてる人もいれば、消している人もいる。私のライトはあんまり明るくなかったから足元を照らしてもらえるのは結構ありがたかったのだが、問題は、道を照らすわけでもなくライトを点灯したままおしゃべりしている連中である。
私のヘッドライトみたいにそれほど明るくないライトなら、点灯したままおしゃべりして、あちこちを向いてもそれほど邪魔にはならなかったかもしれない。しかしLEDのめちゃくちゃ明るいヘッドライトで、あちこち向いてのおしゃべりをされるのは迷惑以外の何物でもない。いきなり強い光がむけられたりすると目がくらむ。段差などで足元に注意しているときにいきなり強い光がむけられて目がくらんだらものすごく危険だと思う。
おしゃべりしてる本人たちは自分のライトがそんな迷惑をかけているなんて気づいてもいないだろう。意識的に登山者の顔に強い光を当ててるわけじゃないんだから。でもそうであるがゆえに厄介だと思う。おしゃべりに興じてあちこち向くのであればライトは消しておいてほしいものである。
この辺のマナーについては私は見たことがないのだが、是非このライト問題についてのマナーというものも決めて、普及してもらいたいものである。
そんなこんなで本七合目見晴館には1時30分に到着。この見晴館は真夜中にもかかわらず、売店が開いていた。この時間だと山小屋での補給ができないものと思っていただけにありがたい。早速水を購入。一応山小屋での補給はできないものと想定して大目に水分は担いできたが(その結果荷物が重くなったわけだが)、それでも水を新たに補給すると、気分的に結構安心感が増す。
補給ののちさらに上を目指す。足の痛みは続いているものの、全身の疲労感はむしろ軽減されたように感じる。なんでだろう?
足取り軽くとはいかないものの、それなりのペースは保って進む。それでもほかの人と比べるとゆっくり目かな。
八合目江戸屋には2時35分。富士山ホテルの下には3時15分に到着。五合目を起点とした場合、試算通りならそろそろ山頂についていなければならないころである。予定より大幅に遅れている。ここからさらに進んでも山頂付近の渋滞に巻き込まれて、日の出時間までに登りきることは絶対不可能である。それならば渋滞の中で窮屈な思いをしながらご来光を迎えるよりは、この場所でゆっくり足を休めながらご来光を待った方が無難であろう。まぁ、もう少し登って八合五勺御来光館位までなら行けたかもしれないけれども。
立ち止まってしばらくするとさすがに寒くなってくる。防寒着代わりに雨具は着用していたが、日の出までひと眠りするにはちょっと寒かったかな。仕方がないので夜食というか朝食というかの準備を始める。この時間、山小屋での食事はできないものと想定して、発熱材付きの非常食を用意しておいたのだ。やっぱりあったかいものを食べたいし。
要するに生石灰に水をかけて発熱させ、その熱で食品をあっためようという原理のものだと思う。だけど気温が低い吹きっさらしの場所での利用って想定されてなかったのかな? 気圧は関係ないよな?
約20分後に出来上がったものはそれほど温かくないうえに、ご飯などは、発熱材に近い部分はまぁ食べられる状態になっていたけれど発熱材から遠かった部分はかたくてぽろぽろした状態。はっきりいっておいしくない。まぁもったいないし、食べ残してもそれを背負っておりなければならないのだから食べたけどね。
別のメーカーのものだったらうまくいったのかな? 少なくとも加熱容器が袋状のものよりかは箱状のもののほうがうまくいきそうな印象は受ける。今回は非常食で見つくろって購入したけど、今後はミリメシで見つくろってみようかな。もう一袋非常食は残ってるけど。
そんなこんなで4時40分。そろそろ日の出時間。眼下に広がる雲海もだいぶ明るくなってくる。
周りの人たちの様子を見てみる。

写真では山小屋群の付近しかよくわからないけれども、頂上までの渋滞のみならず、下山道も人でいっぱい。下山する前にご来光を迎えようって人がたくさんいたのだろう。
そして4時45分ころ。

雲海から昇る太陽。頂上からというわけにはいかなかったが十分きれい。
ご来光を迎えた後、さらにもうしばらく足を休め、5時30分出発。6時には八合五勺御来光館に到着。どんどん進みたいところであるが、上を見るとこんな状態。

九合目より上は渋滞で列が動いているようには見えない。ご来光待ちの人たちが通り過ぎれば少しは渋滞は解消されるのであろうか。気温もあたたかくなってきたことだし、仮眠をとりながら待ってみることにする。
しかし7時になっても様子は変わらないように見える。いつまで待てばよいのかわからない以上、いつまでもその場にいても仕方がない。出発する。
九合目には7時35分に到着。渋滞の列の後ろに並ぶ。頂上はすぐそこに見えるのになかなか進まない。
このとき気になったのが渋滞を無視して無理やりすり抜けていこうとする馬鹿者のことである。道幅に余裕があるわけでもないところを無理やり通ろうとするものだから路肩が崩れる。これって落石を引き起こす危険な行為だと思う。この無理な追い越しのために落石事故が起きたらどう責任を取るつもりなのだろう。こういう不作法者は富士山のみならず山に登っちゃだめだと思う。
そして8時42分。

この鳥居をくぐれば頂上はすぐそこである。
8時45分頂上到着。

久須志神社に参拝ののち、山小屋の裏手に回り込み、火口の際で一休み。
付近には自衛隊の一団がいる。そういえば登っている最中にも何度か自衛隊のグループを見かけた。『火』って旗はどこの部隊だろう。自衛隊の部隊の略称ってよく知らないので今度調べておこう。
しばらく休憩ののち、富士宮口頂上の浅間大社奥宮を目指して移動開始。

火口越しに剣ヶ峰を眺めたりしながら進む。
浅間大社奥宮前には9時40分ころ到着。参拝する。しかし昨年あった、皇紀二六〇〇年の戦勝祈願の石がなくなっている。わざわざ頂上まで来た目的の一つだったのに…。どこかにしまっちゃったのかな?
目的の一つがなくなっていたということですっかり気落ち。どっと疲れが出る。剣が峰に登る気力もない。この状態では下山にも支障がありそうなので、さらに仮眠をとって少しでも体力を回復させることに。
しかし頂上は紫外線が強い。もう照りつけられると暑いというよりも痛いって感じ。息苦しくなったり高山病になったりしないけれども、この紫外線の強さで空気の薄さが実感できる。でもそんな中でもタオルをかぶって仮眠。このとき締め付けられる感じがいやで手袋をはずしていたんだが、その短時間で手が日焼けしちゃった。
11時に下山開始。御殿場口頂上に向かう。富士宮口頂上から御殿場口頂上までの間には非常に多くの自衛隊員がいる。戦車教導隊の旗や第一特科隊の旗などが見える。ヘルメットに落下傘マークが描かれているのは空挺部隊。富士学校の幹部レンジャー課程に来ている人たちであろうか。精鋭中の精鋭だね。
で、この自衛隊の方々は別に遊びに来ているわけではなくて、この8月1日に行われた『富士登山駅伝』の運営の為に来ていたのかな?まぁ全員が全員運営に携わっていたのかどうかは分からないけど。自分の部隊のチームを応援に来ているだけってのもいたと思う。
で、この富士登山駅伝って御殿場口登山道で行われているのだ。そう、私が今回下山ルートに使う予定の場所である。別に一般登山客の通行がとどめられているわけではないようなので予定通り下山することにする。

下山はこんな感じ。駅伝の走者が来るたびに登山客は脇によけて走者を通す。
しかしこの登山駅伝のことは知らないまま行ったわけであるが、出場団体の数はせいぜい十数団体だと思ってた。だからそれさえやり過ごせば普通に降りられると思っていた。私が下山を始める前にそれなりの数のチームが山頂で折り返してたみたいだから、もうすぐ駅伝走者は全員通り過ぎて、普通に通行できるようになるとばかり思っていた。しかし実際には参加団体は百以上あったらしい。いつまでたっても駅伝は終わらない。とにかくちょうど下山しようとしている自衛隊の一団がいたので、それについていくことにする。
走者がいつまでたっても掃けないから、走者に道を譲った後、次の走者が来るまでの短い時間に駆けおりる。で、次の走者が来たら止まって脇によける。その繰り返し。「だるまさんがころんだ」状態。
自衛隊と一緒に行動したおかげで、そのタイミングはつかみやすい。人数が多いし声も大きいから、前方から「登り走者きます」とか後方から「下り走者来るよ!進路開放!」とかの合図が飛び交い、余裕を持ってよけることができる。おまけに無線で話してるのも聞こえるから「最終走者(ビリ)の番号ってわかりますか?」「最終走者は○○番です」なんて交信も聞ける。そういうのを聞くと、最終走者とどこですれ違うかわくわくしながら降りるという楽しみも加わる。
さてこのだるまさんがころんだ。楽しいって言えば楽しいんだけれど、本当なら足をいたわりながらゆっくり降りたいのに駆けおりようっていうのだから足の負担が半端じゃない。結局このだるまさんがころんだは七合五勺砂走館近くまで続いた。
駅伝の最終走者をやり過ごしたのち、砂走館に到着したのが12時40分。昨年ここに宿泊した時に聞いたとおり、8月8日で閉館。来年リニューアルするらしい。事実上この日は登山駅伝のための基地状態で、通常営業している雰囲気ではなかったけど、山小屋前のベンチはあいていたのでここで休憩。
休憩後さらに下って七合目で下山道に入る。このころから霧が濃くなってくる。霧の中を砂走の下山道を降りる。足への負担は多少は小さくなっているのだろうけど、すでに過度の負担がかかった後なので、それほど楽には感じない。
六合目付近で御殿場口下山道を離れて宝永山に向かう。とはいっても霧が濃くて景色なんて楽しめる状況ではないので宝永山山頂には向かわず、さっさと火口へ降りていく。去年登るのに苦労したこの道も下りでははるかに楽ではある。しかし足のダメージがすでに大きいため、ゆっくりとしか進めない。その同じ道を登っていく集団とすれ違う。霧の中御苦労なことである。この集団ってツアーっぽかったけど、プリンスルートで登頂を目指しているのかな?
火口底には14時15分にやっと到着。ここから富士宮口六合目まで登っていかなければならない。足にダメージがたまっている状況では、下りよりも登りのほうが体は楽なんだけれど、疲労が蓄積している状況では登りというだけで精神的に相当つらい。麓からの登山なんてむちゃをしていなければ去年のルートよりも、その逆コースである今年のほうがはるかに楽だと思えたのだろうけれども、今回は麓から登るなんてことで体力を消耗しちゃったからねぇ。
そんなこんなで六合目には14時55分に到着。ここまでくればあともう少しである。最後のひと踏ん張りで15時20分に五合目到着。何とか無事下山できたわけだ。到着したころに雨が降り出す。しかし後はバスに乗って降りるだけ。バスの時刻までレストハウスで休憩。
こんな感じで今回の富士登山は終わり。今回はいろいろ問題点も見つかったものの何とか麓からの登山ができたのだから、今回の問題点を踏まえて今後も麓からの富士登山をしていきたいと思う。
次回はメジャーな吉田口あたりを登って、下りは御殿場口オンリーで降りてみようかな。その次は須山口→富士宮口ルートかな。
まぁ、こう言うのって計画を立てるだけでも楽しいんだよね。次回に備えてまた情報収集を始めようかな。
それはそうと、富士山がらみのもう一つのイベント、富士総合火力演習のほうは、今回もはずれだったようだ。本当に誰か連れてってくれないかなぁ。
2010年1回目の富士登山記(1)
2010年1回目の富士登山記(2)
もう勘弁してほしいなぁ…
8月10日、菅首相が日韓併合100年に合わせた談話を発表。やっぱり事実に基づかない、役に立たないどころか有害ですらあるものだった。それだけでも非難に値するのだが、その同じ日に、菅内閣の閣僚全員が8月15日に靖國参拝を『行わない』ことが明らかにされた。自民党政権下でも首相が参拝しないことはあったが、閣僚の中の誰か一人は参拝しており、全閣僚の不参拝というのは過去30年に例がない。それ以前は記録が残っていないらしいが、全閣僚不参拝というのはやはりなかったのではなかろうか。
そういう過去に例のない不参拝というのもまた非難の声の上がることだろうし、仙谷官房長官の記者会見での「閣僚は公式に参拝するのは自粛しようというのは、日本政府の考え方だと存じ上げている」なんて発言は、政権交代で民主党が下野したとしても、その後の政府を縛り続けるとんでもない発言であろう。
菅談話も全閣僚靖國不参拝もそれぞれが徹底的に非難されるべきことなんだけれども、同じ日に発表されたばかりに非難の対象が分散しているようで、どうも非難が徹底していないような気がする。
さて、靖国問題について考えてみよう。安易に公式参拝という言葉が使われているが、そもそも公式参拝とは何であろうか。
憲法上禁じられているのは、国の機関による宗教行為である。果たして閣僚は『機関』なのであろうか。
法学上『機関』とは、大雑把にいえば、あらかじめ定められた特定の目的について、独立して意思決定・執行できる組織体のことである。この定義に沿っていれば、たとえ一人で構成されていても機関である。
そういう意味において、戦前の大臣は『機関』であったことに疑いはない。戦前の大臣は内閣の一員ではあるものの、内閣の意思に縛られず、それぞれが単独で天皇を輔弼する存在であると、旧憲法で規定されていたからである。
それに対して現憲法下の大臣はどうか。憲法第74条ではこんな規定がある。
『法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする。』
ここで言ってるのはすなわち、「各大臣は単独で意思決定・執行をしちゃいけませんよ」ってことだろう。つまり現憲法上、各大臣ってのは機関ではないのである。内閣は機関であるが、閣僚は機関の『構成員』にすぎないのである。
ただややこしいことに各省庁内においては各大臣は機関である。つまり内閣の一員としての大臣は機関ではなく、各省庁の長としては機関だということである。
さて、マスコミや左翼が問題としているのは、閣僚が各省庁の代表とし参拝することではなく内閣の一員として参拝することである。少なくとも私はそれ以外の論調を見たことはない。各大臣にしても各省庁の代表という意識ではなく内閣の一員という意識で参拝・不参拝を決めているはずである。つまり機関でない部分の行動を問題としているのである。
しかし、機関の構成員の行動が、機関による行為とされるためには、その行動が機関の決定によるものでなければならない。すなわち、もしその参拝が、閣議決定を経ての参拝であるならば、機関による宗教行為に当たり違憲である。しかしそうした閣議決定は行われていない。行われるはずもない。そうである以上、閣僚が参拝したとしても、それは機関による宗教行為には当たらず、そもそも問題にすらなりえないのである。『公式参拝』か『私的参拝』かなどという質問は意味がない。機関による行為でない以上、公式であるわけがない。それをさも問題があるかのように言うのは悪質なデマ同然であろう。
さて、閣僚の参拝が機関による行為でないとすれば、そうした個々の人間の参拝を、周りがとやかく言ってやめさせようとするのは人権侵害に当たる。日本国民には思想の自由があり信教の自由がある。特定の立場においてその自由が制限されてもよいなどという規定はない。
特定の宗教を強要することは許されない。そしてその『特定の宗教』の中には『無宗教』も含まれるべきだろう。無宗教を強要することもまた信教の自由に反すると解すべきだろう。宗教を信じない自由はだれにでもあるが、他の人に「宗教を信じちゃいけない」というのは明らかに個人の思想の自由を侵害している。
今回の閣僚全員不参拝について、官房長官の言葉を信じるなら『自粛』であって、個人の判断の結果ということになるだろう。左翼政権である民主党の内閣においてはそういうこともありうるとは思う。
しかし、もしその過程において「自粛してほしい」という圧力があったとしたら、それは許されてはならないことである。というか、自粛というのは読んで字のごとく、自らつつしむことであり、他人からの要求があった時点でそれはすでに自粛ではない。
現閣僚の判断が本当はどうであったかは知る由もないが、「閣僚は公式に参拝するのは自粛しようというのは、日本政府の考え方だと存じ上げている」などと記者会見で発言するのは、のちの政府に対して自粛を強要する(したがって自粛ではなくなる)とんでもない発言であり、違憲であるともいえるのではなかろうか。
もう本当にいい加減にしてほしいものである。
そういう過去に例のない不参拝というのもまた非難の声の上がることだろうし、仙谷官房長官の記者会見での「閣僚は公式に参拝するのは自粛しようというのは、日本政府の考え方だと存じ上げている」なんて発言は、政権交代で民主党が下野したとしても、その後の政府を縛り続けるとんでもない発言であろう。
菅談話も全閣僚靖國不参拝もそれぞれが徹底的に非難されるべきことなんだけれども、同じ日に発表されたばかりに非難の対象が分散しているようで、どうも非難が徹底していないような気がする。
さて、靖国問題について考えてみよう。安易に公式参拝という言葉が使われているが、そもそも公式参拝とは何であろうか。
憲法上禁じられているのは、国の機関による宗教行為である。果たして閣僚は『機関』なのであろうか。
法学上『機関』とは、大雑把にいえば、あらかじめ定められた特定の目的について、独立して意思決定・執行できる組織体のことである。この定義に沿っていれば、たとえ一人で構成されていても機関である。
そういう意味において、戦前の大臣は『機関』であったことに疑いはない。戦前の大臣は内閣の一員ではあるものの、内閣の意思に縛られず、それぞれが単独で天皇を輔弼する存在であると、旧憲法で規定されていたからである。
それに対して現憲法下の大臣はどうか。憲法第74条ではこんな規定がある。
『法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする。』
ここで言ってるのはすなわち、「各大臣は単独で意思決定・執行をしちゃいけませんよ」ってことだろう。つまり現憲法上、各大臣ってのは機関ではないのである。内閣は機関であるが、閣僚は機関の『構成員』にすぎないのである。
ただややこしいことに各省庁内においては各大臣は機関である。つまり内閣の一員としての大臣は機関ではなく、各省庁の長としては機関だということである。
さて、マスコミや左翼が問題としているのは、閣僚が各省庁の代表とし参拝することではなく内閣の一員として参拝することである。少なくとも私はそれ以外の論調を見たことはない。各大臣にしても各省庁の代表という意識ではなく内閣の一員という意識で参拝・不参拝を決めているはずである。つまり機関でない部分の行動を問題としているのである。
しかし、機関の構成員の行動が、機関による行為とされるためには、その行動が機関の決定によるものでなければならない。すなわち、もしその参拝が、閣議決定を経ての参拝であるならば、機関による宗教行為に当たり違憲である。しかしそうした閣議決定は行われていない。行われるはずもない。そうである以上、閣僚が参拝したとしても、それは機関による宗教行為には当たらず、そもそも問題にすらなりえないのである。『公式参拝』か『私的参拝』かなどという質問は意味がない。機関による行為でない以上、公式であるわけがない。それをさも問題があるかのように言うのは悪質なデマ同然であろう。
さて、閣僚の参拝が機関による行為でないとすれば、そうした個々の人間の参拝を、周りがとやかく言ってやめさせようとするのは人権侵害に当たる。日本国民には思想の自由があり信教の自由がある。特定の立場においてその自由が制限されてもよいなどという規定はない。
特定の宗教を強要することは許されない。そしてその『特定の宗教』の中には『無宗教』も含まれるべきだろう。無宗教を強要することもまた信教の自由に反すると解すべきだろう。宗教を信じない自由はだれにでもあるが、他の人に「宗教を信じちゃいけない」というのは明らかに個人の思想の自由を侵害している。
今回の閣僚全員不参拝について、官房長官の言葉を信じるなら『自粛』であって、個人の判断の結果ということになるだろう。左翼政権である民主党の内閣においてはそういうこともありうるとは思う。
しかし、もしその過程において「自粛してほしい」という圧力があったとしたら、それは許されてはならないことである。というか、自粛というのは読んで字のごとく、自らつつしむことであり、他人からの要求があった時点でそれはすでに自粛ではない。
現閣僚の判断が本当はどうであったかは知る由もないが、「閣僚は公式に参拝するのは自粛しようというのは、日本政府の考え方だと存じ上げている」などと記者会見で発言するのは、のちの政府に対して自粛を強要する(したがって自粛ではなくなる)とんでもない発言であり、違憲であるともいえるのではなかろうか。
もう本当にいい加減にしてほしいものである。
2010年1回目の富士登山記(2) 良い子は真似しちゃダメだぞ!!
前回記事で麓の浅間神社からグランドキャニオンの入口まできた。今回はさらに上に登っていく。
旧登山道とグランドキャニオンへの道の交差点からほんのちょっと歩くと

もうグランドキャニオンが見えてくる。このまま崖下を歩いて行きたい所ではあるが、一応ここも立ち入り禁止区域。一応グランドキャニオン沿いに道も整備されてるみたいなので、無理せず道のほうを進んでさらに上流に。まぁ、道からもグランドキャニオンは見えなくはないんだけれど、ちょっと木が邪魔かな。
道を進んでいくと下りてくる二人組とすれ違う。小富士から下りてきたのかな?
二俣状の沢床と呼ばれている、グランドキャニオンの上流部には14時10分くらいに到着。途中、旧登山道に向かうと思われる分岐もあったが、とりあえずグランドキャニオン優先。地図に載ってる小富士へのルートが見つけられないor見つけられても進めそうにない場合はその道を進んで旧登山道を目指してみようか。(もっとも本当に旧登山道かどうかは分からないけどね)

下流方向を見ると迫力あるねぇ。
上流方向を見ると岩に白ペンキでマーキングしてあるのだが、そのマーキングは×で消してある。以前はそっちから登れたけど今は登れなくなってるとかなのかな?
あたりをよく見まわしてみると、砂の急斜面に靴跡が見える。さっきの二人組の通った跡かな?
靴跡があるということは滑り下りたり転げ落ちたりしたわけではあるまい。ある程度体重を乗せられる部分があるから靴跡が残っているのだろう。ならば登れないわけあるまい。とりあえず登ってみることにする。
とりあえず靴跡に沿って進もうとするが、これはやっぱり登るところじゃないね。普通に歩こうとすれば一歩進む間に二歩分以上ずり落ちるもん。それを根性で登っちゃったのは私の性格によるものだろう。でもステッキ二本使いだから何とかなったって面もあるだろう。杖なしor一本だったら登れなかったかもしれない。
普通の人(私も普通の人だけどね)はやらない方がいいでしょう。というか、特にグループで来ている場合は絶対こんなことやっちゃダメだよ。後ろの人が危ないからね。無理して登ろうとして大規模な崩落を引き起こして埋まっちゃう可能性もあるわけだから、どうしてもここを登ろうというのならば十分気をつけたうえで自己責任で。『登った人のレポを見た』ってだけで安易にまねしちゃダメだよ!

写真は登ってきた場所を上から撮影。よくこんなところ登ってきたなぁ。ふじあざみラインで体力を消耗したうえにここでも無理して余計な体力を使っちゃって、頂上までたどり着く体力って残ってるのかな?
それはともかく、そんな苦労して登って、先に道がない=正しいルートではないなんてことになると笑うに笑えないわけだが、幸い上には道が続いていてホッとする。どうやらルートは間違っていなかったようだ。
このルートは地図に載ってるだけあって、道ははっきりとわかる。はっきりしていても笹の間なんかは狭くて通りにくかったけど。

この道を進んでいく最中、何度も見かけるものがあった。

足跡である。これはシカの足跡だろうか?それともグランドキャニオン付近で見られるというカモシカの足跡だろうか?
まぁシカでもカモシカでも見られればラッキーだったんだけど、あいにく見かけなかった。まぁ動物どころか人も見かけないんだけれどもね。でもクマなんかに出くわすよりかはマシかな?この辺にクマがいるかどうかは知らないけど。
霧がどんどん濃くなる中さらに進んでいく。森の中を通ったり、グランドキャニオン上流の谷の際を通ったり。とくに谷の際を通るときは要注意だろう。砂の急斜面の際を通るわけで、ちょっとよろけて道から外れたら砂が崩れて谷底まで滑り落ちていくだろうなって感じ。霧で谷底の様子が見えないあたりかえって怖かったり。こんなところで事故ったら、助けを呼ぼうにも次に人が通るのはいつになるだろう。まぁ自力で動ければ谷底を下流に向かって進めばグランドキャニオンには出るはずだけど。
さらに進むと森を抜ける。

このはげ山の頂上に三角点があるはず。頂上目指して一直線と言いたいところだが、一応白ペンキのマーキングをたどることにする。下から見てもわかるマーキングがされていることから考えるとやはりここを登る人もいるんだろうなぁ。しかし登ってくる人どころか下ってくる人にも会わない。まぁその方が気が楽なんだけどもね。
南の方を眺めるとふじあざみラインの一部が見えたりする。そっちも相変わらずあまり車が通っているようには見えない。
そんなこんなで16時05分に三角点に到着。

赤い石柱と白い石柱があるけど白い方が三角点かな。
この場所から富士山のほうを見てみる。

やっぱり雲で富士山は見えない…。ちなみに右寄りに手前にある小山が小富士のはず。小富士も山頂ははげ山なんだけど、ここからだと、その下の部分の森で山頂部分は隠れちゃうんだね。
しばらく休憩ののち、その小富士に向かって森に突入。すぐに森を抜けはげ山を登る。16時35分小富士到着。

相変わらず富士山は見えないのでここは通り過ぎて五合目に向かって小富士遊歩道を進む。
小富士遊歩道が終わるころにまた雨が降ってくる。今度は結構強い雨のようである。あわてて東富士山荘に駆け込む。
17時到着。試算より30分ばかり遅れている。ただ気分的には一時間くらい遅れてる気分。試算はある程度余裕を織り込んでいるのだから、順調に進めば16時くらいには到着できたんじゃないかと思ってしまう。グランドキャニオンにも小富士にも行かず、旧登山道をまっすぐ五合目まで進んでいたらさらに早く到着できたかな?
とにかくここで食事をとる。もう夕食の時間と言ってもよいけれども、実際には遅い昼食かな。いや、登ってる最中に羊羹を丸かじりしながら来たから、カロリー的には足りてたと思うんだけれど、やっぱりちゃんとした食事を食べたいじゃない。
何を頼もうかと迷っているときに目に付いたのがこれ。

東富士山荘と言うとキノコ料理が有名ということで、何かキノコ料理を頼もうと思っていたんだけれど、これを目にしたら、やっぱりこっちでしょ。鹿肉だよ、鹿肉!
運ばれてきたもみじカレー。写真通りに肉がゴロゴロと並んでいる。味は…。フツー。言われなきゃ鹿肉だか牛肉だかわかんないんじゃないかな。とくにカレーって料理は細かな風味は香辛料で覆い隠されちゃうし。でもこういうのって「鹿肉食べてきたんだぜ!」っていう話のネタのためにあるようなものでしょ。味なんかは、まずくなければそれでいいよ。値段も普通のカレーと大差ない値段だし。
でもキノコ料理も食べたかったなぁ。秋あたりにでもキノコ料理を食べにこようかな。六合目付近で須走口と河口湖口を結ぶ御中道コースも歩いてみたいし。
カレーを食べ終わってもまだ雨は止んでいない。食べ終わってるのにいつまでもグズグズしているのも申し訳ない気がしたのでかき氷を追加注文。
そんなこんなで30分ほど休憩したのだが、まだ雨はやまない。仕方がないので雨具着用で出発することに。
といったところでいったん終了。
2010年1回目の富士登山記(1)
2010年1回目の富士登山記(3)
旧登山道とグランドキャニオンへの道の交差点からほんのちょっと歩くと

もうグランドキャニオンが見えてくる。このまま崖下を歩いて行きたい所ではあるが、一応ここも立ち入り禁止区域。一応グランドキャニオン沿いに道も整備されてるみたいなので、無理せず道のほうを進んでさらに上流に。まぁ、道からもグランドキャニオンは見えなくはないんだけれど、ちょっと木が邪魔かな。
道を進んでいくと下りてくる二人組とすれ違う。小富士から下りてきたのかな?
二俣状の沢床と呼ばれている、グランドキャニオンの上流部には14時10分くらいに到着。途中、旧登山道に向かうと思われる分岐もあったが、とりあえずグランドキャニオン優先。地図に載ってる小富士へのルートが見つけられないor見つけられても進めそうにない場合はその道を進んで旧登山道を目指してみようか。(もっとも本当に旧登山道かどうかは分からないけどね)

下流方向を見ると迫力あるねぇ。
上流方向を見ると岩に白ペンキでマーキングしてあるのだが、そのマーキングは×で消してある。以前はそっちから登れたけど今は登れなくなってるとかなのかな?
あたりをよく見まわしてみると、砂の急斜面に靴跡が見える。さっきの二人組の通った跡かな?
靴跡があるということは滑り下りたり転げ落ちたりしたわけではあるまい。ある程度体重を乗せられる部分があるから靴跡が残っているのだろう。ならば登れないわけあるまい。とりあえず登ってみることにする。
とりあえず靴跡に沿って進もうとするが、これはやっぱり登るところじゃないね。普通に歩こうとすれば一歩進む間に二歩分以上ずり落ちるもん。それを根性で登っちゃったのは私の性格によるものだろう。でもステッキ二本使いだから何とかなったって面もあるだろう。杖なしor一本だったら登れなかったかもしれない。
普通の人(私も普通の人だけどね)はやらない方がいいでしょう。というか、特にグループで来ている場合は絶対こんなことやっちゃダメだよ。後ろの人が危ないからね。無理して登ろうとして大規模な崩落を引き起こして埋まっちゃう可能性もあるわけだから、どうしてもここを登ろうというのならば十分気をつけたうえで自己責任で。『登った人のレポを見た』ってだけで安易にまねしちゃダメだよ!

写真は登ってきた場所を上から撮影。よくこんなところ登ってきたなぁ。ふじあざみラインで体力を消耗したうえにここでも無理して余計な体力を使っちゃって、頂上までたどり着く体力って残ってるのかな?
それはともかく、そんな苦労して登って、先に道がない=正しいルートではないなんてことになると笑うに笑えないわけだが、幸い上には道が続いていてホッとする。どうやらルートは間違っていなかったようだ。
このルートは地図に載ってるだけあって、道ははっきりとわかる。はっきりしていても笹の間なんかは狭くて通りにくかったけど。


この道を進んでいく最中、何度も見かけるものがあった。

足跡である。これはシカの足跡だろうか?それともグランドキャニオン付近で見られるというカモシカの足跡だろうか?
まぁシカでもカモシカでも見られればラッキーだったんだけど、あいにく見かけなかった。まぁ動物どころか人も見かけないんだけれどもね。でもクマなんかに出くわすよりかはマシかな?この辺にクマがいるかどうかは知らないけど。
霧がどんどん濃くなる中さらに進んでいく。森の中を通ったり、グランドキャニオン上流の谷の際を通ったり。とくに谷の際を通るときは要注意だろう。砂の急斜面の際を通るわけで、ちょっとよろけて道から外れたら砂が崩れて谷底まで滑り落ちていくだろうなって感じ。霧で谷底の様子が見えないあたりかえって怖かったり。こんなところで事故ったら、助けを呼ぼうにも次に人が通るのはいつになるだろう。まぁ自力で動ければ谷底を下流に向かって進めばグランドキャニオンには出るはずだけど。
さらに進むと森を抜ける。

このはげ山の頂上に三角点があるはず。頂上目指して一直線と言いたいところだが、一応白ペンキのマーキングをたどることにする。下から見てもわかるマーキングがされていることから考えるとやはりここを登る人もいるんだろうなぁ。しかし登ってくる人どころか下ってくる人にも会わない。まぁその方が気が楽なんだけどもね。
南の方を眺めるとふじあざみラインの一部が見えたりする。そっちも相変わらずあまり車が通っているようには見えない。
そんなこんなで16時05分に三角点に到着。

赤い石柱と白い石柱があるけど白い方が三角点かな。
この場所から富士山のほうを見てみる。

やっぱり雲で富士山は見えない…。ちなみに右寄りに手前にある小山が小富士のはず。小富士も山頂ははげ山なんだけど、ここからだと、その下の部分の森で山頂部分は隠れちゃうんだね。
しばらく休憩ののち、その小富士に向かって森に突入。すぐに森を抜けはげ山を登る。16時35分小富士到着。

相変わらず富士山は見えないのでここは通り過ぎて五合目に向かって小富士遊歩道を進む。
小富士遊歩道が終わるころにまた雨が降ってくる。今度は結構強い雨のようである。あわてて東富士山荘に駆け込む。
17時到着。試算より30分ばかり遅れている。ただ気分的には一時間くらい遅れてる気分。試算はある程度余裕を織り込んでいるのだから、順調に進めば16時くらいには到着できたんじゃないかと思ってしまう。グランドキャニオンにも小富士にも行かず、旧登山道をまっすぐ五合目まで進んでいたらさらに早く到着できたかな?
とにかくここで食事をとる。もう夕食の時間と言ってもよいけれども、実際には遅い昼食かな。いや、登ってる最中に羊羹を丸かじりしながら来たから、カロリー的には足りてたと思うんだけれど、やっぱりちゃんとした食事を食べたいじゃない。
何を頼もうかと迷っているときに目に付いたのがこれ。

東富士山荘と言うとキノコ料理が有名ということで、何かキノコ料理を頼もうと思っていたんだけれど、これを目にしたら、やっぱりこっちでしょ。鹿肉だよ、鹿肉!
運ばれてきたもみじカレー。写真通りに肉がゴロゴロと並んでいる。味は…。フツー。言われなきゃ鹿肉だか牛肉だかわかんないんじゃないかな。とくにカレーって料理は細かな風味は香辛料で覆い隠されちゃうし。でもこういうのって「鹿肉食べてきたんだぜ!」っていう話のネタのためにあるようなものでしょ。味なんかは、まずくなければそれでいいよ。値段も普通のカレーと大差ない値段だし。
でもキノコ料理も食べたかったなぁ。秋あたりにでもキノコ料理を食べにこようかな。六合目付近で須走口と河口湖口を結ぶ御中道コースも歩いてみたいし。
カレーを食べ終わってもまだ雨は止んでいない。食べ終わってるのにいつまでもグズグズしているのも申し訳ない気がしたのでかき氷を追加注文。
そんなこんなで30分ほど休憩したのだが、まだ雨はやまない。仕方がないので雨具着用で出発することに。
といったところでいったん終了。
2010年1回目の富士登山記(1)
2010年1回目の富士登山記(3)
2010年1回目の富士登山記(1) 須走浅間神社から登っちゃうぞ!!
さて富士山にいってきてから一週間経ってしまった。そろそろ詳細版をアップしなければ。
ということでまずは今回の経路。

さてさて、昨年の逆コースで、須走口から登って御殿場口下山道・宝永山経由で富士宮口に降りる計画。それに麓からの登山をプラスしたコース。距離的に見れば吉田口の麓からコースと大差ないはずだし、いろいろ見どころのありそうなコース。登ってて飽きることはないだろう。問題は体力的にキチンと行って帰ってこれるか。まぁ行って帰ってくる体力がないと思えばこんな計画はしないわけだけれど、それではどの程度時間がかかるか。
浅間神社から五合目までを(グランドキャニオン・小富士経由で)6時間程度、五合目から頂上までが、疲れが蓄積している分、標準タイムより大幅に時間がかかるだろうから10時間程度。合計16時間程度を登りに使うと試算。
御来光を頂上で迎えようとした場合、余裕を持って4時には頂上についていたいから、その16時間前、12時には浅間神社を出発していなければならない。
でも一番暑い時間をふじあざみラインの照り返しのきつい中を歩くのはつらそう。しかし朝一番のバスで浅間神社に行き8時くらいから登り始めれば多少は暑さがしのげるかもしれないけれど、そのためには自宅をものすごく早い時間に出なければならず、寝不足状態で出発しなければならない。どうすべきか迷っていたのだが、結果からいえば当日寝坊気味だったため、10時半ごろから登山開始という、ちょうど間をとったような時間になった。
ちなみにかかる時間を試算はしているものの、試算通りに進めるかわからないので、今回は山小屋の予約はしなかった。予約しておきながらそこまでたどり着けなかったりするかもしれないわけだから。まぁ予約が取れるんならご来光は山小屋前で迎え、十分な休息ののち余裕を持って登頂というのが無難だとは思うんだけどね。麓から登るんなら。
というか、山小屋の予約ってなかなか難しい。天候がはっきりして登山日程が決まってからでは予約は取れないだろうし、予約の取れるうち、まだ天候がどうなるかもわからないうちに予約しちゃって、運が悪ければ雨の中の登山ってのも嫌。ちなみに去年は平日の上、利用者の少ない御殿場口の山小屋だから比較的間際になってからの予約でも何とかなったけど、今年は土日だからねぇ…。
まぁ、そんなこんなで、『東口本宮富士浅間神社(須走浅間神社)』に到着したのが10時05分。道が混んでいたためバスは遅れ気味だったみたい。本当ならもう20分くらいは早くつけたのかな?

まずは参拝し登頂祈願。

賽銭箱に書かれた紋が見えるかな? 富士山に桜の紋。浅間神社がお祀りしているのは木花之佐久夜毘売命。この神様の名前の中の『サクヤ』が変化して『サクラ』という名ができたともいわれている。富士山の神様であり桜のもととなった神様。だから富士山に桜の紋なわけだ。日本を代表する山である富士山と日本を代表する花である桜。日本だねぇ。
さて、参拝が終わったら、裏参道から退出。参道を抜けると駐車場、そしてその先には登山道(ふじあざみライン)の入口が。

準備を終え、10時25分に出発。
出発してすぐに東富士五湖道路をくぐるトンネル。気分的にはこのトンネルを抜けたところが出発点というようにも感じてしまう。

車はあまり通ってないが、五合目の駐車場は満車だそうな。まぁ歩きの私には関係ないことだ。
しばらく行くと松並木という標識がある。

しかし標識はあるものの、実際に松並木が始まるのはまだ先のよう。
五合目までは一切の補給ができない。体内の水分を汗として流してしまってはもったいないので、意識的にゆっくり歩く。しかしそんなの無意味だった。標高は800メートルほどだから、標高の低いところと比べて5度くらいは気温が低いはずだが、この時期の昼間では十分暑い。おまけに五合目まで補給ができないということで、その分余計に水を持ってきておりその重さものしかかってくる。
結果、歩きはじめて30分もしないうちに汗だく。せっかく塗った日焼け止めも流れてしまったろう。松並木の木陰も大して涼しくない。
さらにしばらく進むと雲が出てきた。直接照りつけられるよりはだいぶましになったものの、すでに予定よりも体力を消耗している。やはり私は疲れよりも暑さに弱いようだ。8時くらいから登り始めていれば多少は良かったかな?
できれば登り口付近で前日に宿をとり、明るくなり始める5時くらい出発というのが理想的なのかもしれない。そうすれば涼しいうちに樹林帯に入れたんだろうねぇ。とはいっても後の祭り。とにかく進むしかない。
そんなこんなで旧登山道の入り口に着いたのが11時50分。ちょうどふじあざみラインのつづら折りが始まるところ。

自衛隊の敷地だから、本当は入っちゃいけないのだろうけれども、「見つかっちゃったら謝ればいいかぁ」と、軽い気持ちで入りこむ。良い子は真似しちゃダメだぞ!!

広くはっきりした道だが、そこにある靴跡は登山客のものか自衛隊員のものか?まぁ自衛隊員のものなんだろうなぁ。そんなに登山者がたくさん通っているとは思えないもん。
ここを登っている最中に雨が降り出す。木陰で休憩を兼ねて雨宿り。そんなに時間がたたないうちにやんだので出発。
12時55分。旧登山道はいったん終わり、しばらくはふじあざみラインを歩く。10分ほど歩くと馬返しである。

この馬返しのところからまた旧登山道に入る。
こっちの旧登山道は倒木などで道がふさがれてたりする。

今までと比べ歩きにくくはなっているが、まだ進める。
そんなこんなで進んでいくと旧登山道と交差する道が。グランドキャニオンに向かう道だ。

グランドキャニオンへ向かう道のほうが旧登山道よりも整備されてるように見えるけど、仕方がないことだろう。通る人の数が違うもん。
山場の一つの直前ではあるが、いったんここで終了。次回をお楽しみに!!
2010年1回目の富士登山記(2)
2010年1回目の富士登山記(3)
ということでまずは今回の経路。

さてさて、昨年の逆コースで、須走口から登って御殿場口下山道・宝永山経由で富士宮口に降りる計画。それに麓からの登山をプラスしたコース。距離的に見れば吉田口の麓からコースと大差ないはずだし、いろいろ見どころのありそうなコース。登ってて飽きることはないだろう。問題は体力的にキチンと行って帰ってこれるか。まぁ行って帰ってくる体力がないと思えばこんな計画はしないわけだけれど、それではどの程度時間がかかるか。
浅間神社から五合目までを(グランドキャニオン・小富士経由で)6時間程度、五合目から頂上までが、疲れが蓄積している分、標準タイムより大幅に時間がかかるだろうから10時間程度。合計16時間程度を登りに使うと試算。
御来光を頂上で迎えようとした場合、余裕を持って4時には頂上についていたいから、その16時間前、12時には浅間神社を出発していなければならない。
でも一番暑い時間をふじあざみラインの照り返しのきつい中を歩くのはつらそう。しかし朝一番のバスで浅間神社に行き8時くらいから登り始めれば多少は暑さがしのげるかもしれないけれど、そのためには自宅をものすごく早い時間に出なければならず、寝不足状態で出発しなければならない。どうすべきか迷っていたのだが、結果からいえば当日寝坊気味だったため、10時半ごろから登山開始という、ちょうど間をとったような時間になった。
ちなみにかかる時間を試算はしているものの、試算通りに進めるかわからないので、今回は山小屋の予約はしなかった。予約しておきながらそこまでたどり着けなかったりするかもしれないわけだから。まぁ予約が取れるんならご来光は山小屋前で迎え、十分な休息ののち余裕を持って登頂というのが無難だとは思うんだけどね。麓から登るんなら。
というか、山小屋の予約ってなかなか難しい。天候がはっきりして登山日程が決まってからでは予約は取れないだろうし、予約の取れるうち、まだ天候がどうなるかもわからないうちに予約しちゃって、運が悪ければ雨の中の登山ってのも嫌。ちなみに去年は平日の上、利用者の少ない御殿場口の山小屋だから比較的間際になってからの予約でも何とかなったけど、今年は土日だからねぇ…。
まぁ、そんなこんなで、『東口本宮富士浅間神社(須走浅間神社)』に到着したのが10時05分。道が混んでいたためバスは遅れ気味だったみたい。本当ならもう20分くらいは早くつけたのかな?

まずは参拝し登頂祈願。

賽銭箱に書かれた紋が見えるかな? 富士山に桜の紋。浅間神社がお祀りしているのは木花之佐久夜毘売命。この神様の名前の中の『サクヤ』が変化して『サクラ』という名ができたともいわれている。富士山の神様であり桜のもととなった神様。だから富士山に桜の紋なわけだ。日本を代表する山である富士山と日本を代表する花である桜。日本だねぇ。
さて、参拝が終わったら、裏参道から退出。参道を抜けると駐車場、そしてその先には登山道(ふじあざみライン)の入口が。

準備を終え、10時25分に出発。
出発してすぐに東富士五湖道路をくぐるトンネル。気分的にはこのトンネルを抜けたところが出発点というようにも感じてしまう。

車はあまり通ってないが、五合目の駐車場は満車だそうな。まぁ歩きの私には関係ないことだ。
しばらく行くと松並木という標識がある。

しかし標識はあるものの、実際に松並木が始まるのはまだ先のよう。
五合目までは一切の補給ができない。体内の水分を汗として流してしまってはもったいないので、意識的にゆっくり歩く。しかしそんなの無意味だった。標高は800メートルほどだから、標高の低いところと比べて5度くらいは気温が低いはずだが、この時期の昼間では十分暑い。おまけに五合目まで補給ができないということで、その分余計に水を持ってきておりその重さものしかかってくる。
結果、歩きはじめて30分もしないうちに汗だく。せっかく塗った日焼け止めも流れてしまったろう。松並木の木陰も大して涼しくない。
さらにしばらく進むと雲が出てきた。直接照りつけられるよりはだいぶましになったものの、すでに予定よりも体力を消耗している。やはり私は疲れよりも暑さに弱いようだ。8時くらいから登り始めていれば多少は良かったかな?
できれば登り口付近で前日に宿をとり、明るくなり始める5時くらい出発というのが理想的なのかもしれない。そうすれば涼しいうちに樹林帯に入れたんだろうねぇ。とはいっても後の祭り。とにかく進むしかない。
そんなこんなで旧登山道の入り口に着いたのが11時50分。ちょうどふじあざみラインのつづら折りが始まるところ。

自衛隊の敷地だから、本当は入っちゃいけないのだろうけれども、「見つかっちゃったら謝ればいいかぁ」と、軽い気持ちで入りこむ。良い子は真似しちゃダメだぞ!!


広くはっきりした道だが、そこにある靴跡は登山客のものか自衛隊員のものか?まぁ自衛隊員のものなんだろうなぁ。そんなに登山者がたくさん通っているとは思えないもん。
ここを登っている最中に雨が降り出す。木陰で休憩を兼ねて雨宿り。そんなに時間がたたないうちにやんだので出発。
12時55分。旧登山道はいったん終わり、しばらくはふじあざみラインを歩く。10分ほど歩くと馬返しである。


この馬返しのところからまた旧登山道に入る。
こっちの旧登山道は倒木などで道がふさがれてたりする。

今までと比べ歩きにくくはなっているが、まだ進める。
そんなこんなで進んでいくと旧登山道と交差する道が。グランドキャニオンに向かう道だ。

グランドキャニオンへ向かう道のほうが旧登山道よりも整備されてるように見えるけど、仕方がないことだろう。通る人の数が違うもん。
山場の一つの直前ではあるが、いったんここで終了。次回をお楽しみに!!
2010年1回目の富士登山記(2)
2010年1回目の富士登山記(3)
また余計なことを…
菅首相が日韓併合100年に際し首相談話を出す意向らしい。当然のごとく村山談話を踏襲したものになるらしい。
仙谷官房長官は「日韓併合100年という節目に、私たちが来し方を振り返り、未来についてじっくり考えるべきときだ」としているようだが、「反省」と「おわびの気持ち」を盛り込んだものが何で未来につながるというのだろう。反省とお詫びで未来が築けるなら村山談話で事態は好転していたはずではないか。
しかし現実は逆。村山談話のせいでさらに図に乗って声高に謝罪要求をするようになっただけではないか。
まぁそりゃそうだろう。向こうは謝罪を受け入れる気なんてさらさらないだろうし、日本も何に対して謝罪すればいいのかわからないままに、形だけの謝罪の言葉を並べているだけなんだから、いくらでも突っ込みをいれられてしまう。こんな状況下で新たな反省やお詫びを口にしたところで未来のより良い関係を築くどころか、ますます関係が悪化するだけである。
日本は何に対して謝罪をしなければならないのだろうか?
植民地支配で迷惑をかけたことに対して?
それは違うだろう。そもそも日本が朝鮮でしてきたことを植民地支配と言えるのだろうか。
一般的にいって植民地支配といった場合収奪するのが普通だろう。ところが日本は収奪するどころか、教育・インフラの面で相当な額を投資している。もちろんどんな植民地であっても、現地人を自軍の兵士として使うために最低限の教育はするだろうけど、日本が整備したのはそうした最低限の教育ではなく、高等教育までも含んでいたのだ。例えば京城帝国大学等は大阪帝国大学や名古屋帝国大学よりも早くに設立されているし、朝鮮人であっても日本の陸軍士官学校に入学でき、最終的に中将にまでなった朝鮮人もいる。中将というのは生粋の日本人だってそうそうなれる階級ではない。
もし本当に植民地支配などをしようと思ったら、下手に現地人に知恵をつけたり、高い地位につけたりするのは反乱の芽を増やすことにしかならないのだから、そうした高等教育からは遠ざけようとするのが普通ではなかろうか。
徴兵に関しても朝鮮人は優遇されていて、終戦間際まで徴兵を免除されている。もし植民地支配していたのなら、そんな優遇措置をとることなく真っ先に徴兵して日本人の盾となるような配置をされていたことだろう。
もちろん理想と現実は違うわけだから、理想通りにいかなかったがためのすれ違いにより迷惑をかけた部分はあるだろう。しかし差し引きで見れば十分以上に恩恵も与えてきたわけで、それを無視して迷惑部分にのみ着目して謝罪要求をするってのは、もはや言いがかりと言ってもよいのではなかろうか。
日本が朝鮮に謝罪すべきことがあるとすれば、日本が戦争に負けてしまったことだろう。
日本の戦争に協力したにもかかわらずその日本が負けてしまったことにより協力者としての誇りが傷ついた。日本と戦ったわけでもないのに戦勝国に名を連ねることによってやっと自尊心を充足させている状態。
また朝鮮の教育・インフラ整備のための投資も日本の敗戦とともに途絶え、朝鮮発展にブレーキがかかってしまった。
日本の抜けた穴を埋めるように影響力を行使しようとしたアメリカや中国・ソ連は、朝鮮の発展に尽くすどころか朝鮮を分断させてにらみ合うばかり。
つまり日本が戦争に勝ってさえいれば国家が分断されることもなく、日本とともに社会発展していき、戦勝国と共に戦えたことを誇りに思えたわけである。それなのに日本は負けてしまった。これなら確かに怒っても仕方がない。「負けてしまって申し訳ない」とか「最後まで面倒をみれなくて申し訳ない」という謝罪なら確かにありうるだろう。特に今回の談話というのは日韓併合100年という節目に出すもの。未来志向であるならばその日韓併合のプラス面を評価し、それを全うできなかったことこそを反省し、また昔のように手を取り合って発展していこうというのが筋ではなかろうか。ありもしない『植民地支配による迷惑』に対する反省とお詫びなど、筋違いも甚だしい。
まぁそういう事実に基づいた談話など韓国が受け入れるわけないし、市民活動家上がりの菅首相がそんな談話を出すわけもない。
しかし事実に基づかない言葉を重ねたところで、そんなものは未来志向とは言わない。現在・過去・未来というのはすべてつながっているものである以上、未来を語るためには過去・現在の事実に基づかなければならない。
事実を軽視するくらいなら余計な談話など出さない方がマシである。
========== 8月7日追記 ==========
昨日8月6日に米国駐日大使が広島平和祈念式典に出席したことについて、米国務次官補が『広島では、謝罪することは何もないが、戦争の影響を受けたすべての人々に配慮を示す』と強調したとのこと。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100807-00000036-jij-int
原爆投下というのは、市民を巻き込んだ無差別爆撃に相当する国際法違反であるとの説があるにもかかわらず、明確に「謝罪することは何もない」と言いきっているのである。米国高官が米国の国益を考えて発言すれば当然こうなるだろう。
それに対して日韓併合というのは条約に基づき合法的に行われたものである。にもかかわらず謝罪しようなんて、頭がどうかしているとしか思えない。米国の対応を見習うべきだろう。
仙谷官房長官は「日韓併合100年という節目に、私たちが来し方を振り返り、未来についてじっくり考えるべきときだ」としているようだが、「反省」と「おわびの気持ち」を盛り込んだものが何で未来につながるというのだろう。反省とお詫びで未来が築けるなら村山談話で事態は好転していたはずではないか。
しかし現実は逆。村山談話のせいでさらに図に乗って声高に謝罪要求をするようになっただけではないか。
まぁそりゃそうだろう。向こうは謝罪を受け入れる気なんてさらさらないだろうし、日本も何に対して謝罪すればいいのかわからないままに、形だけの謝罪の言葉を並べているだけなんだから、いくらでも突っ込みをいれられてしまう。こんな状況下で新たな反省やお詫びを口にしたところで未来のより良い関係を築くどころか、ますます関係が悪化するだけである。
日本は何に対して謝罪をしなければならないのだろうか?
植民地支配で迷惑をかけたことに対して?
それは違うだろう。そもそも日本が朝鮮でしてきたことを植民地支配と言えるのだろうか。
一般的にいって植民地支配といった場合収奪するのが普通だろう。ところが日本は収奪するどころか、教育・インフラの面で相当な額を投資している。もちろんどんな植民地であっても、現地人を自軍の兵士として使うために最低限の教育はするだろうけど、日本が整備したのはそうした最低限の教育ではなく、高等教育までも含んでいたのだ。例えば京城帝国大学等は大阪帝国大学や名古屋帝国大学よりも早くに設立されているし、朝鮮人であっても日本の陸軍士官学校に入学でき、最終的に中将にまでなった朝鮮人もいる。中将というのは生粋の日本人だってそうそうなれる階級ではない。
もし本当に植民地支配などをしようと思ったら、下手に現地人に知恵をつけたり、高い地位につけたりするのは反乱の芽を増やすことにしかならないのだから、そうした高等教育からは遠ざけようとするのが普通ではなかろうか。
徴兵に関しても朝鮮人は優遇されていて、終戦間際まで徴兵を免除されている。もし植民地支配していたのなら、そんな優遇措置をとることなく真っ先に徴兵して日本人の盾となるような配置をされていたことだろう。
もちろん理想と現実は違うわけだから、理想通りにいかなかったがためのすれ違いにより迷惑をかけた部分はあるだろう。しかし差し引きで見れば十分以上に恩恵も与えてきたわけで、それを無視して迷惑部分にのみ着目して謝罪要求をするってのは、もはや言いがかりと言ってもよいのではなかろうか。
日本が朝鮮に謝罪すべきことがあるとすれば、日本が戦争に負けてしまったことだろう。
日本の戦争に協力したにもかかわらずその日本が負けてしまったことにより協力者としての誇りが傷ついた。日本と戦ったわけでもないのに戦勝国に名を連ねることによってやっと自尊心を充足させている状態。
また朝鮮の教育・インフラ整備のための投資も日本の敗戦とともに途絶え、朝鮮発展にブレーキがかかってしまった。
日本の抜けた穴を埋めるように影響力を行使しようとしたアメリカや中国・ソ連は、朝鮮の発展に尽くすどころか朝鮮を分断させてにらみ合うばかり。
つまり日本が戦争に勝ってさえいれば国家が分断されることもなく、日本とともに社会発展していき、戦勝国と共に戦えたことを誇りに思えたわけである。それなのに日本は負けてしまった。これなら確かに怒っても仕方がない。「負けてしまって申し訳ない」とか「最後まで面倒をみれなくて申し訳ない」という謝罪なら確かにありうるだろう。特に今回の談話というのは日韓併合100年という節目に出すもの。未来志向であるならばその日韓併合のプラス面を評価し、それを全うできなかったことこそを反省し、また昔のように手を取り合って発展していこうというのが筋ではなかろうか。ありもしない『植民地支配による迷惑』に対する反省とお詫びなど、筋違いも甚だしい。
まぁそういう事実に基づいた談話など韓国が受け入れるわけないし、市民活動家上がりの菅首相がそんな談話を出すわけもない。
しかし事実に基づかない言葉を重ねたところで、そんなものは未来志向とは言わない。現在・過去・未来というのはすべてつながっているものである以上、未来を語るためには過去・現在の事実に基づかなければならない。
事実を軽視するくらいなら余計な談話など出さない方がマシである。
========== 8月7日追記 ==========
昨日8月6日に米国駐日大使が広島平和祈念式典に出席したことについて、米国務次官補が『広島では、謝罪することは何もないが、戦争の影響を受けたすべての人々に配慮を示す』と強調したとのこと。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100807-00000036-jij-int
原爆投下というのは、市民を巻き込んだ無差別爆撃に相当する国際法違反であるとの説があるにもかかわらず、明確に「謝罪することは何もない」と言いきっているのである。米国高官が米国の国益を考えて発言すれば当然こうなるだろう。
それに対して日韓併合というのは条約に基づき合法的に行われたものである。にもかかわらず謝罪しようなんて、頭がどうかしているとしか思えない。米国の対応を見習うべきだろう。
とりあえず生還報告
7月31日と8月1日の二日間で富士山に登ってきた。
今回は昨年の逆コース。
昨年、および今年の6月に諦めた部分(グランドキャニオン見物)の補完もしよう。せっかくだからグランドキャニオンから旧登山道を使って五合目までも歩いて行ってみよう。そこまでやるんだったらグランドキャニオンからなどと言わずに麓の浅間神社から歩いてみよう。
そんなことを考えて今回の富士登山を計画したのである。
朝10時05分に須走の浅間神社に到着。参拝したり日焼け止めを塗ったり準備運動したりして10時25分出発。炎天下のふじあざみラインを歩きはじめる。
ふじあざみラインのつづら折れが始まる直前の旧登山道入り口には11時50分到着。旧馬返には13時05分到着。そこからさらに15分ほど歩いたところで旧登山道から離れてグランドキャニオンへ。分岐点から5分ほどでグランドキャニオンが見えてくる。
旧登山道からは離れたままだがグランドキャニオン沿いにさらに進む。旧登山道は地図に載っていないが、このグランドキャニオンコースは地図に載っている。でも旧登山道に戻った方が楽だったかも…。
そんなこんなで小富士に到着したのが16時35分。五合目到着が17時。食事ののち17時30分出発。
新六合目長田山荘には19時50分、本六合目瀬戸館には21時、七合目大陽館には23時20分に到着。それぞれで20分ほどの休憩をとる。
本七合目見晴館に到着したのは日付が変わった1時30分。八合目江戸屋には2時35分。さらに登り、富士山ホテル下には3時15分に到着。頂上でのご来光はあきらめ、ここで待機。
4時40分ころ、日の出時間。明るくはなっているが雲で太陽は見えない。さらに5分ほどして雲海より昇る朝日を見る。

朝食をとったりした後、5時30分、頂上に向けて出発。八合五勺御来光館には6時に到着。上を見ると九合目の鳥居から上は渋滞で列はほとんど動いていないように見える。仮眠をとって様子を見ることにする。
7時。いくら待っても渋滞は解消しそうにないので、とっとと登ることにする。九合目の神社には7時35分到着。渋滞の列の後ろに並ぶ。そして8時45分に頂上到着。
久須志神社に参拝したり休憩をしたりしたのち、富士宮口頂上の浅間大社奥宮を目指して移動開始。
浅間大社奥宮に到着するも、今回の目当ての一つであった皇紀二千六百年の戦勝祈願の石がなくなっているのを目の当たりにする。気力でここまで来ただけに、どっと疲れが出る。お鉢めぐりを続行するどころか剣ヶ峰に登る気力も失せた。
再度仮眠をとり、11時に下山を開始。自衛隊の皆さんと「だるまさんがころんだ」をしながら御殿場口を下る。
13時40分、御殿場口下山道を離れ宝永山に向かう。火口底には14時15分到着。15分の休憩ののち、富士宮口六合目を目指して登っていく。
六合目宝永山荘には14時55分に到着。5分休憩後五合目へ。15時20分到着。無事下山。
帰宅直後は疲れで、入浴後すぐ寝ちゃったため、このブログの更新はできなかったが、とりあえず大雑把ではあるがこんな感じ。
後日写真の整理をしたのち詳細版を掲載する。
今回は昨年の逆コース。
昨年、および今年の6月に諦めた部分(グランドキャニオン見物)の補完もしよう。せっかくだからグランドキャニオンから旧登山道を使って五合目までも歩いて行ってみよう。そこまでやるんだったらグランドキャニオンからなどと言わずに麓の浅間神社から歩いてみよう。
そんなことを考えて今回の富士登山を計画したのである。
朝10時05分に須走の浅間神社に到着。参拝したり日焼け止めを塗ったり準備運動したりして10時25分出発。炎天下のふじあざみラインを歩きはじめる。
ふじあざみラインのつづら折れが始まる直前の旧登山道入り口には11時50分到着。旧馬返には13時05分到着。そこからさらに15分ほど歩いたところで旧登山道から離れてグランドキャニオンへ。分岐点から5分ほどでグランドキャニオンが見えてくる。
旧登山道からは離れたままだがグランドキャニオン沿いにさらに進む。旧登山道は地図に載っていないが、このグランドキャニオンコースは地図に載っている。でも旧登山道に戻った方が楽だったかも…。
そんなこんなで小富士に到着したのが16時35分。五合目到着が17時。食事ののち17時30分出発。
新六合目長田山荘には19時50分、本六合目瀬戸館には21時、七合目大陽館には23時20分に到着。それぞれで20分ほどの休憩をとる。
本七合目見晴館に到着したのは日付が変わった1時30分。八合目江戸屋には2時35分。さらに登り、富士山ホテル下には3時15分に到着。頂上でのご来光はあきらめ、ここで待機。
4時40分ころ、日の出時間。明るくはなっているが雲で太陽は見えない。さらに5分ほどして雲海より昇る朝日を見る。

朝食をとったりした後、5時30分、頂上に向けて出発。八合五勺御来光館には6時に到着。上を見ると九合目の鳥居から上は渋滞で列はほとんど動いていないように見える。仮眠をとって様子を見ることにする。
7時。いくら待っても渋滞は解消しそうにないので、とっとと登ることにする。九合目の神社には7時35分到着。渋滞の列の後ろに並ぶ。そして8時45分に頂上到着。
久須志神社に参拝したり休憩をしたりしたのち、富士宮口頂上の浅間大社奥宮を目指して移動開始。
浅間大社奥宮に到着するも、今回の目当ての一つであった皇紀二千六百年の戦勝祈願の石がなくなっているのを目の当たりにする。気力でここまで来ただけに、どっと疲れが出る。お鉢めぐりを続行するどころか剣ヶ峰に登る気力も失せた。
再度仮眠をとり、11時に下山を開始。自衛隊の皆さんと「だるまさんがころんだ」をしながら御殿場口を下る。
13時40分、御殿場口下山道を離れ宝永山に向かう。火口底には14時15分到着。15分の休憩ののち、富士宮口六合目を目指して登っていく。
六合目宝永山荘には14時55分に到着。5分休憩後五合目へ。15時20分到着。無事下山。
帰宅直後は疲れで、入浴後すぐ寝ちゃったため、このブログの更新はできなかったが、とりあえず大雑把ではあるがこんな感じ。
後日写真の整理をしたのち詳細版を掲載する。