1月2日あれこれ
新年である。
例年通り2日には皇居参賀に行ってきた。
ちなみに2日は箱根駅伝往路の日でもある。少し早めに出かけ、スタート直後の駅伝を見送った後、そのまま皇居に向かうとちょうどよい。ただ、駅伝見物がメインの人にとっては、スタート直後の場所ってのはあまり良くないと思う。まだ集団はバラけてないし、疲れによるスピードダウンのない時である。あっという間に通り過ぎてしまって面白みがない。まぁ皇居参賀がメインの私にとってはだらだら続くよりかはよいのだが。
しかし駅伝について以前から思っているのだが、沿道の観客に配られる応援旗。確かに読売新聞社が主催してるのだから仕方がないことではあるのだが、『箱根駅伝』の文字より『読売』の文字のほうが大きいというのはどうなんだろう。観客は駅伝の応援をしているのであって読売新聞の応援をしているわけではない。宣伝として応援旗を配っているのはわかるが、ここまであからさまに宣伝するのはあまりにも品がないのではなかろうか。デザインを改め、箱根駅伝の文字を大きくした方がよいと思う。
さて駅伝が通り過ぎた後、皇居に向かう。
一回目のお出ましは10時10分。約2時間待つことになる。しかし私より前に並んでいる人は多数いる。前日からナrんでいる人もいるようである。私が待っている間は比較的暖かく、寒くはなかったのだが、前日や早朝から並んでいる人はどうだったのだろう。御苦労な事である。
さて今回のお出ましもつつがなく進んだわけであるが、今回に限らず気になっていることがある。皇族方がお出ましになるとき、帽子をかぶったままの参賀者が多数いることだ。
国旗掲揚の際は脱帽して国旗に敬意を表すのが国際的な慣例。天皇陛下も日本国の象徴という意味において国旗と同等以上に敬意を払わねばならない存在である。それを帽子をかぶったまま出迎えるというのはいかなる神経をもっているのであろうか。
例えば初詣で、神様に対して脱帽もせずにお参りする人がいるのは仕方がない。いや、『脱帽してお参りしましょう』ときちんと表示されている神社もあるのだから仕方なくなどないのだけれど、百歩譲って仕方ないとしよう。左翼がかった教育によって常識が身についていないのだから。
しかし皇居参賀に来るような人がそれではだめだろう。
この点、外人は、お出ましのときに私が帽子を脱ぐとその意味を理解できるようで、何も言わなくても帽子を脱いでくれる。私の『帽子を脱ぐ』という行為を目にしても意味を理解しない日本人が多いというのは恥ずかしいことである。
数年前、冬季オリンピックの表彰式で国歌が演奏されているときに帽子を取らずに突っ立っていた選手に対する批判が高まったことがあったが、それと同様の行為をしていることを理解していないのだろうねぇ。少なくとも皇居参賀の一回目のお出ましに参集するような比較的愛国心の強いであろう層ですらこの体たらくとは…。あの時あの選手を批判する資格のある人間ってどのくらいいたのだろう。
天皇陛下のお言葉をたまわった後、私は東京駅方面には戻らず、北の丸公園方面へ向かって通り抜けていく。目指す先は東京大神宮。
狭義の初詣は自宅近所の神社で済んでいるのであるが、神様に対する年始のご挨拶という意味において東京大神宮にもお参りしている。本当は伊勢までお参りに行きたいものの、そこまでの余裕はないので、東京大神宮を通してお伊勢参りをするわけである。もともと東京大神宮はそういう目的で作られた神社だし。
皇居から東京大神宮までの間には靖國神社もあるので、こちらにもご挨拶のお参りをしていく。
屋台なども多数出ていてにぎわってはいるものの、例年に比べて人が多いという印象はない。
靖國神社を後にして東京大神宮へ。何か例年よりも参拝者の列が長くなっていてびっくり。
名前とは裏腹に東京大神宮はそんなに大きな神社ではないが、確かに例年ある程度の行列ができている。しかし今回ほどの混雑に遭遇したことは今までなかった。良くは知らないが、最近のパワースポットブームで、何らかの紹介がされたのであろうか。
しかし東京大神宮の紹介の仕方にはいささか違和感を覚える。曰く、『縁結びの神様』だそうな。
…違うよ。
東京大神宮は伊勢を遥拝するために建てられた神社であり、当然お祀りしているのは天照皇大神と豊受大神である。豊受大神は農業、諸産業の神様であり、天照皇大神は皇祖神だから国家安寧の神様であり、また、農業、諸産業の神様でもある。どちらも縁結びが専門というわけではない。
また同社には天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神も祀られているが、これ等の神様は造化の三神と呼ばれる、世界を作った神様である。無理して関連付ければ、縁結びのその先の子宝と結び付けることもできるかもしれないが、やはり縁結びとは微妙にずれている。
ではなぜ縁結びの神様とされているかといえば、明治時代、時の皇太子殿下ご成婚の際に宮中三殿で行われた結婚の儀を模した、『神前結婚式』を創設・普及活動を行ったのが東京大神宮だったからである。つまり神様の都合ではなく人間の都合で縁結びの神様に『されてしまった』のである。これって神様に対して失礼ではなかろうか。
とにかく私は神様にご挨拶をし、日本の将来の安泰を祈願して退出。
ここは伊勢神宮とゆかりがある神社なので、正月の間は伊勢名物の赤福振る舞いをやっているのだが、参拝者数が急増したためか、赤福は品切れになってしまていた。例年こんな事態に遭遇したことはないから、今年はよほど急激に賛参拝者が増えたのだろう。皇居参賀ののちに東京大神宮に参拝し、振る舞い酒と赤福を口にすることが正月の私の恒例だったんだけれどもなぁ。赤福…。
さてこんな具合に始まった、今年はどんな年になるのであろうか。
例年通り2日には皇居参賀に行ってきた。
ちなみに2日は箱根駅伝往路の日でもある。少し早めに出かけ、スタート直後の駅伝を見送った後、そのまま皇居に向かうとちょうどよい。ただ、駅伝見物がメインの人にとっては、スタート直後の場所ってのはあまり良くないと思う。まだ集団はバラけてないし、疲れによるスピードダウンのない時である。あっという間に通り過ぎてしまって面白みがない。まぁ皇居参賀がメインの私にとってはだらだら続くよりかはよいのだが。
しかし駅伝について以前から思っているのだが、沿道の観客に配られる応援旗。確かに読売新聞社が主催してるのだから仕方がないことではあるのだが、『箱根駅伝』の文字より『読売』の文字のほうが大きいというのはどうなんだろう。観客は駅伝の応援をしているのであって読売新聞の応援をしているわけではない。宣伝として応援旗を配っているのはわかるが、ここまであからさまに宣伝するのはあまりにも品がないのではなかろうか。デザインを改め、箱根駅伝の文字を大きくした方がよいと思う。
さて駅伝が通り過ぎた後、皇居に向かう。
一回目のお出ましは10時10分。約2時間待つことになる。しかし私より前に並んでいる人は多数いる。前日からナrんでいる人もいるようである。私が待っている間は比較的暖かく、寒くはなかったのだが、前日や早朝から並んでいる人はどうだったのだろう。御苦労な事である。
さて今回のお出ましもつつがなく進んだわけであるが、今回に限らず気になっていることがある。皇族方がお出ましになるとき、帽子をかぶったままの参賀者が多数いることだ。
国旗掲揚の際は脱帽して国旗に敬意を表すのが国際的な慣例。天皇陛下も日本国の象徴という意味において国旗と同等以上に敬意を払わねばならない存在である。それを帽子をかぶったまま出迎えるというのはいかなる神経をもっているのであろうか。
例えば初詣で、神様に対して脱帽もせずにお参りする人がいるのは仕方がない。いや、『脱帽してお参りしましょう』ときちんと表示されている神社もあるのだから仕方なくなどないのだけれど、百歩譲って仕方ないとしよう。左翼がかった教育によって常識が身についていないのだから。
しかし皇居参賀に来るような人がそれではだめだろう。
この点、外人は、お出ましのときに私が帽子を脱ぐとその意味を理解できるようで、何も言わなくても帽子を脱いでくれる。私の『帽子を脱ぐ』という行為を目にしても意味を理解しない日本人が多いというのは恥ずかしいことである。
数年前、冬季オリンピックの表彰式で国歌が演奏されているときに帽子を取らずに突っ立っていた選手に対する批判が高まったことがあったが、それと同様の行為をしていることを理解していないのだろうねぇ。少なくとも皇居参賀の一回目のお出ましに参集するような比較的愛国心の強いであろう層ですらこの体たらくとは…。あの時あの選手を批判する資格のある人間ってどのくらいいたのだろう。
天皇陛下のお言葉をたまわった後、私は東京駅方面には戻らず、北の丸公園方面へ向かって通り抜けていく。目指す先は東京大神宮。
狭義の初詣は自宅近所の神社で済んでいるのであるが、神様に対する年始のご挨拶という意味において東京大神宮にもお参りしている。本当は伊勢までお参りに行きたいものの、そこまでの余裕はないので、東京大神宮を通してお伊勢参りをするわけである。もともと東京大神宮はそういう目的で作られた神社だし。
皇居から東京大神宮までの間には靖國神社もあるので、こちらにもご挨拶のお参りをしていく。
屋台なども多数出ていてにぎわってはいるものの、例年に比べて人が多いという印象はない。
靖國神社を後にして東京大神宮へ。何か例年よりも参拝者の列が長くなっていてびっくり。
名前とは裏腹に東京大神宮はそんなに大きな神社ではないが、確かに例年ある程度の行列ができている。しかし今回ほどの混雑に遭遇したことは今までなかった。良くは知らないが、最近のパワースポットブームで、何らかの紹介がされたのであろうか。
しかし東京大神宮の紹介の仕方にはいささか違和感を覚える。曰く、『縁結びの神様』だそうな。
…違うよ。
東京大神宮は伊勢を遥拝するために建てられた神社であり、当然お祀りしているのは天照皇大神と豊受大神である。豊受大神は農業、諸産業の神様であり、天照皇大神は皇祖神だから国家安寧の神様であり、また、農業、諸産業の神様でもある。どちらも縁結びが専門というわけではない。
また同社には天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神も祀られているが、これ等の神様は造化の三神と呼ばれる、世界を作った神様である。無理して関連付ければ、縁結びのその先の子宝と結び付けることもできるかもしれないが、やはり縁結びとは微妙にずれている。
ではなぜ縁結びの神様とされているかといえば、明治時代、時の皇太子殿下ご成婚の際に宮中三殿で行われた結婚の儀を模した、『神前結婚式』を創設・普及活動を行ったのが東京大神宮だったからである。つまり神様の都合ではなく人間の都合で縁結びの神様に『されてしまった』のである。これって神様に対して失礼ではなかろうか。
とにかく私は神様にご挨拶をし、日本の将来の安泰を祈願して退出。
ここは伊勢神宮とゆかりがある神社なので、正月の間は伊勢名物の赤福振る舞いをやっているのだが、参拝者数が急増したためか、赤福は品切れになってしまていた。例年こんな事態に遭遇したことはないから、今年はよほど急激に賛参拝者が増えたのだろう。皇居参賀ののちに東京大神宮に参拝し、振る舞い酒と赤福を口にすることが正月の私の恒例だったんだけれどもなぁ。赤福…。
さてこんな具合に始まった、今年はどんな年になるのであろうか。
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