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日野光治

Author:日野光治
馬鹿と煙は高い所に登る。
しかし高い所に登らなきゃ見えない景色もある。
政治だって『庶民の目線』なんてのがもてはやされてるけど、そういう低い位置からだけしか見ていなければ道を誤る。
ということで、馬鹿は馬鹿なりに今日も好き勝手に政治放談したり山歩きをしてみたりと、気ままに生きてます。

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保守?

石原新党の名が「太陽の党」になったかと思ったら日本維新の会と合流したり。爆発せずに不発か…タイヨウノトウなのに。などと思う今日この頃。
ところでここ数カ月の政治関連の動きを見ていると、自民党総裁に安倍晋三氏が選ばれたり石原慎太郎氏が国政復帰を目指したりについて、「日本が右傾化している」という論調で語られることが多い(特に中韓の顔色をうかがう論説とともに)。また橋下徹氏のことを右とする論説も見かけたことがある。
しかしこれらの論調にはどうにも違和感を感じる。「右」というのは政治的には保守を意味しているが、必ずしも保守と言えない人に対しても右と評されることが多いように感じる。そもそも日本の政治家、いや日本国民に、本当の保守はどれくらいいるのだろうか?

私自身、便宜上このブログにおいて、自分を保守と規定して文章を書いている面はある。しかし実際のところ自分のことを保守などと考えていない。戦前・戦中であれば特高に目をつけられる程度にはリベラルだと思っているし、そういう意味において自分はせいぜい中道左派だと思っている。そんな私から見ても、例えば石原慎太郎氏などは左に見えるのである。もちろん「左翼だから石原はダメだ」などというつもりはない。選挙というよりマシな候補者を選ぶという制度においては極左を選ぶよりは左がかっているだけのほうがマシというものだろう。

とはいっても石原氏を左だという主張は一般には受け入れられがたいだろう。これは結局日本語の乱れにより言葉の意味と実態が乖離してしまった結果なのだろう。しかし政治にかかわる、いわば日本の精神にかかわる言葉について安易な意味変更を認めるのはふさわしいこととは言えない。
ということでもう少し保守について考えてみたい。



石原氏のことを右だと思う根拠を尋ねれば、たいがい「タカ派」とか「国家主義的言動や国益重視の姿勢」といった答えが返ってくるだろう。しかし本来それらは保守とは関係ない。
例えば日本国憲法制定に際し第9条に対して、共産党の野坂参三氏が「自衛権がある以上、自衛戦争まで放棄する必要はない!」と主張した例からもわかる通り、昔は革新政党である共産党にも自国民を守るためには軍隊を持ち戦争も厭うべきではないという常識を持つ人物がいたわけである。大東亜戦争も自衛戦争として戦ったという経緯を考えれば自衛戦争を認めろという主張は国家主義につながりかねないタカ派的主張にも見えるかもしれないが、だからと言って野坂参三氏が保守であったわけではない。そのような人物を党員としてずっと扱っていた共産党も保守政党などではない。
つまり政治思想の左右を問わず、愛国心を持ち、国を守る気概を持つのは当然のことであり、愛国心というだけで奇異な目で見られる現代の状況こそが異常なのである。

では愛国心の有無で左右を測れないのであれば、何を基準とするかといえば、国体、つまり伝統によって形作られた国柄に対する態度であろう。石原氏は、愛国心はあるように見える(あくまでも見えるだけかもしれないが…)ものの、その愛する対象となる国というのは、あくまでも今自分が住んでいる国のことであり、それがどのような国柄を持っているかには頓着しないという姿勢に見える。三国人といったような時代がかった言い回しを好む割には、国体という言葉は使わないことにも表れているように思うし、御皇室のあり方についても昔には否定的な言説を書いていたこともある。
まぁ、考えてみれば当然であろう。石原氏にしても、保守派論客と認知されている漫画家の小林よしのり氏にしても、根底にあるのは権力に対する反発である。作家・漫画家という表現者にはこういう権力への反発ってのが強いのだろう。それはともかく、権力に対抗する手段として市民運動に頼ったのが菅前首相らであり、愛国心という言葉を振りかざしたのが石原氏や小林氏である。一見菅氏と石原氏らは正反対に見えるものの、根っこの部分から見れば同類そのものであろう。
もちろん愛国心という常識を国民に広める役割をになってくれている分、菅氏より石原氏のほうが数段マシではあるものの、そもそもが権力に対抗する「手段」として愛国心を持ち出してきた経緯から考えて、権力への対抗手段として愛国心が効果的ではなくなった時も愛国心を持ち続けるかどうかは疑問にも思う。
愛国心という常識を広めるため、石原氏らの言説を歓迎しつつも支持をためらうのはこの辺の事情によるものである。

そしてここへきて日本維新の会への合流である。橋下氏については定見もなく国民受けの良いことを言っているだけで、たまたまそれが愛国層に受けいらられ易い内容だっただけという印象を持っているが、本当のところがどうなのかはいまだわからないので、ここでの論評は控える。しかし「維新」という言葉を使っていることについては触れておくべきだろう。
「維新」という言葉は、すべてを改め新たにすること、すなわち革命のことであり、保守とは対極にある言葉である。保守を担うつもりのある政治家なら、革命政党を名乗る党に入ることに躊躇はなかったのだろうか?少なくとも石原氏よりはるかに保守的であるはずの平沼氏らはこの決定に反対しなかったのであろうか?本当に革命による解決を目指しているのであればそんな輩が保守を名乗るのは国民を騙す行為であるし、意味を深く考えることもなくノリで維新という言葉を使うような軽い言語感覚の持ち主であれば、政治という日本の精神にかかわる場に送り出すことに不安を感じる。

しかし困ったことに、保守派を自称する有権者の間にも維新=革命願望が広まっている様に思う。おそらく総選挙後自民党が政権をとり、安倍氏が首相になることだろう。自称保守派たちは、それによって劇的な変化が訪れることを望んでいる。しかし安倍氏が保守としてまともな政権運営をしようとすれば劇的な変化など起きないし起こしてはいけないのだ。
長い年月をかけて一定方向から力をかけて歪んだ材木があったとして、その歪みを直すために一気に逆向きの力をかけたら折れてしまうだけ。本気で歪みを直したいのなら、時間をかけて徐々に矯正していくしかないのだ。折れてしまっても作り替えればよいというのは革命思想であり、本当の保守派なら持ちえない考えである。
しかし自称保守派は時間をかけての修正を待つことができない。安倍政権への期待が大きい分、結果がなかなか出ない状況にしびれを切らし、失望感を強めていく。今から予言しておくが、安部政権打倒の主力となるのは、現在保守派を自称している連中となるだろう。

日本の右傾化が騒がれているが実態は右傾化とはほど遠く、せいぜい左に寄りすぎた日本の進路を正しい方向に向き直らせようとする小さな力にすぎないのだが、その小さな力を邪魔するのが自称保守派だというのは皮肉である。日本をあるべき姿に戻すためには、まずこの自称保守派をどうにかしないと…。自分たちが革新的思考を持っていることに気付いていない分厄介である。どうしたものか…。

いや、私自身は先述の通り保守のつもりはないから革命的手法も、積極的に推進はしないが容認くらいはできるかもしれないけどね。それどころか神楽日毬みたいな娘に「ともに戦ってくれ」なんて誘われたら革命的愛国運動に身を投じちゃうかもしれない(笑)。けどむさいおっさん相手だと「まじめに保守をやれよ!」って感想を持つのは仕方ないよね?保守が保守らしくあってくれないと、私の立ち位置ってのがよくわからないものになって居心地が悪い。一刻も早く真正保守というものが現れることを望む。
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テーマ : 保守主義
ジャンル : 政治・経済

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