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日野光治

Author:日野光治
馬鹿と煙は高い所に登る。
しかし高い所に登らなきゃ見えない景色もある。
政治だって『庶民の目線』なんてのがもてはやされてるけど、そういう低い位置からだけしか見ていなければ道を誤る。
ということで、馬鹿は馬鹿なりに今日も好き勝手に政治放談したり山歩きをしてみたりと、気ままに生きてます。

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領土問題?

不適切除染問題やら体罰自殺問題やら、取り上げたい話題は多々あるのだが、なかなかブログのほうまで手が回せていないのであるが、とりあえず鳩山由紀夫元首相が訪中して馬鹿発言をしたことについては書いておこう。

南京大虐殺記念館で南京大虐殺を認める発言をしたことも問題ではあるが、尖閣諸島は日中の「係争地」だとの発言のことを取り上げる。

保守系の人にとっては常識に属することであるが一般国民にとってはこれのどこが問題なのかわかりにくいかもしれない。一見すると確かに日本と中国双方で領有権を争っているように見える。しかし政治の世界で用いる狭義での領有権問題というのは、領有権がはっきりしないことによる係争のことを言う。尖閣諸島については50年代までは中国共産党の機関紙である人民日報でも尖閣諸島を沖縄の一部とする記事を載せているし、外交文書でも沖縄の一部とした上で「尖閣諸島を台湾に組み込むべきかどうか検討の必要がある」としている。つまりこの時はまだ中国は尖閣を自国領土とは考えていなかったのである。であるならばアメリカから返還された沖縄に、もともと沖縄に属していた尖閣も含まれているという主張に無理はない。つまり尖閣諸島は日本が領有していることに疑いはない。領有権の所在にあいまいなところがない以上、これは領土問題とは呼ばない。
領有権の所在がはっきりしているところに難癖をつけてちょっかいを出すことは領土問題ではなく侵略問題である。つまり尖閣諸島問題というのは、中国による日本侵略の問題なのだ。

中国としても侵略者の汚名を着ることは避けたいのであろう。そのためにあたかも領土問題があるかのように思いこませたいわけである。鳩山氏は今は首相でないどころか国会議員ですらないが、元首相の言葉となればそれなりの重みを持ってしまう。鳩山氏といえば普天間移設問題でも「最低でも県外」などといって日米関係に亀裂を生じさせ、さんざん混乱させた挙句「勉強したら沖縄の重要性がよくわかった」などといってあっさり前言を翻した前歴があるが、そういう勉強不足のままうかつにものをいう性格を中国に利用されてしまったわけだ。こういった問題人物は勝手な行動をせぬよう監禁しておくにこしたことはないだろう。ルーピーらしく精神科の閉鎖病棟にいてもらったほうが国のためにも本人のためにも良いのではなかろうか。

ただ鳩山発言をきちんと否定できたとしても、いまだ中国側のほうが有利な手札をそろえているといえる。連合国憲章の旧敵国条項である。日本に侵略の意図ありと判断したらいつでも攻撃してもよいという条項である。最近普通の国として当たり前の主張をしようという動きに対して「右傾化」という言葉が多用されているが、中国の次の一歩のための布石なのではないかと疑いたくもなる。なるほど国連を名乗る連合国会議の場で今の日本が侵略を意図しているなどというたわごとに同意する国は少ないかもしれない。しかし国際社会が認めなくても、中国にとっては侵略されると思ったと言い張れば開戦の口実になるのだ。つまり自分たちの侵略の意図を隠すために日本を侵略国に仕立て上げようというわけだ。
もちろんアメリカは尖閣諸島も安保の適用範囲だと明言はしている。しかしそれは尖閣が日本の領土と認めているからではなく、日本の施政権下にあるからだとしている。つまりあっさりと尖閣を奪われた揚句、奪還作戦の発動に(アホ野党の反対などによって)手間取ったりした場合、日本の施政権下にはなかったとみなされ安保適用外と言い出す余地が残されているのだ。中国としてもアメリカと事を構えようとは思っていないだろうが、アメリカが介入しない可能性がごくわずかでもあれば危険なかけに出ないとも限らない。そういう事態にしないためにも、尖閣が単に施政権下にあるだけでなく日本の領土得あることを国際社会に認知させる努力が必要であるとともに、尖閣などを守る兵力を整えなければならない。以前このブログでも書いたが第15旅団に一個連隊一個飛行隊を増設し先島諸島のどこかに駐屯させることによって対応力を強化する必要もあるだろうし、西部方面普通科連隊を迅速に向かわせるための手段も整えておくべきだろう。佐世保から揚陸艦に乗って何日もかけて行ったのでは間に合わない。やはり日本もオスプレイを導入すべきだろう。まぁ兵力増強もオスプレイ導入も時間がかかることだから、現在の危機には間に合わないかもしれない。しかしそうした姿勢を示し、尖閣を守る意思を示し続けることでアメリカの支援をつなぎとめておかなければならないのが現状でもある。うまく中国の侵略の前に整備できればそれにこしたことはないが。

でも結局そうした整備を進めるためにも必要なのが国民の理解である。そのためにも『尖閣問題は日中間の領土問題』とか『日本が右傾化している』とかいうデマに、国民が騙されないようにすることが肝要ということになる。中国の侵略から身を守るためにも、日本国民には一刻も早く目覚めてもらいたいものである。
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参拝の作法

今年も無事一年を始めることができた。例年通りいくつかの神社を訪れたのだが、普段参拝などしたことのない人たちが大挙してくるせいか参拝の仕方でまごついている人を多数見かけた。それ自体はほほえましい部分もあるものの、見過ごし難い気になる点もみうけられた。まぁ私も専門家ではないので偉そうなことは言えないのだが、参拝の仕方について思うところを書いておこうと思う。あくまでも私の個人的な考え方なので、根拠を示して誤りを指摘されればあらためることも吝かではない。


まず第一に初詣の順番である。一か所にしかお参りしないのであればどこにお参りに行くかと言い換えてもよいだろう。
有名寺社仏閣に初詣に出掛ける人が多い。保守派を自称する者の中には靖国神社で年越しカウントダウンをしてそのまま靖国神社で初詣というものがいたようだ。しかしどうにもこういうのには違和感を感じるのである。
確かにどこに参拝に行かなければならないとか、どういう順番で参拝しろといった明確な指針というものは示されていない。しかしもともと初詣は氏神様に詣でるものである。そののち恵方にある寺社に詣でることも含まれるようになり、さらには氏神様でもなく恵方とも関係ない有名寺社に詣でることまでも含まれるようにまでなってしまっているわけであるが、基本は氏神様に詣でた後に崇敬する神社に詣でるのが筋である。
つまり順番としては、まず最初に日本全体の氏神様たる天照大神に、次に地元の氏神様、さらにそのあとに崇敬する神社に詣でるのが好ましいだろう。ちょうど神棚に祀る神札の順番と同じである。
とはいっても、近所に天照大神を祀る神社がない場合もあるだろう。しかし天照大神は太陽の神様でもある。初日を拝することにより、太陽を通して天照大神にご挨拶することで代替できるのではなかろうか。したがって天照大神を祀る神社に詣でるのでない限りは、初詣は日の出時刻より後になるはずである。だから有名寺社で年越しカウントダウンしてそのまま参拝というのには違和感を感じるのだ。靖国神社に初詣といえば確かに愛国心の誇示にはなるだろうが、一体何を保守したいのであろうか。


次に手水についてである。神道に限らずたいていの宗教では聖域に入るときには身を清めることが求められる。神社も聖域なのでしかるべき方法で身を清めなければならない。それが手水である。手水舎の水盤に『浄心』と書かれている場合があることからもわかる通り、手水は手と口をすすぐだけではなく、その行為を通して心を落ち着け心の穢れも洗い流すつもりで行うものである。
初詣のように人が多いと、人の波に流されて手水舎に近づけないまま神前まで行ってしまう人も少なくはないようである。しかし俗世の穢れを祓わぬまま神前に進むのは神様に対して失礼である。手水はきちんとするようにしたいものである。
ただ、東京大神宮のように手水をしなければ境内には入れないように列を誘導している、きちんとした神社がある一方、神奈川県内のとある有名神社では『右側は手水の列です。○○へ直接おいでの方は左側をお進みください』といったような看板を出していた。清浄を旨とする聖域に俗世の穢れを持ち込むことを神社自身が公式に認めてどうする!!
たとえどんなに有名でも、その御利益が広く喧伝されていても、こういうまがい物には気をつけたいものである。


さて賽銭箱の前まで来ると「ここは神社だから二回お辞儀をして二回手を打ってもう一回お辞儀すればいいんだよね?」とか「お賽銭っていつ入れるの?鈴の前?鈴の後?」といった話声が聞こえてくる。
まず、例外がないとは言えないが、基本的には神社では賽銭の後に鈴を鳴らす。寺の場合は鰐口という鈴のような銅鑼のようなものが吊るしてある場合があるが、こちらは先に鳴らしてから賽銭らしい。
賽銭・鈴の後は、神社では二拝二拍手一拝、寺は宗派によって作法が異なるが、わからなければとりあえず合掌しておけばよいと思う。まぁ浄土・浄土真宗なら南無阿弥陀仏、日蓮衆なら南無妙法蓮華経、真言宗なら南無大師遍照金剛といった具合に唱えたりできればなお良いかも。
あと細かいことであるが一点。「おててのシワとシワを合わせてシアワセ」というCMがあるが、シワとシワを合わせてもシワアワセであって幸せではなく、むしろフシとフシが合わさってしまうからフシアワセ。という冗談はさておき、柏手を打つ時や寺で合掌するとき手はずらして行うものである。
神道の場合は左手は霊を、右手は肉体を表すものとされているので、右を下というか手前にずらして柏手を打ち、そののち霊(神)に近づき一体となるという意味でずれを直して手を合わせる。
逆に仏教では右手が仏、左手が人間を表すとされているので左手を下にずらして合掌する。
ただこれらのことにこだわりすぎるあまり、形だけで心がこもらない参拝をするのは神様も喜ばないだろう。基本形は覚えておくべきではあるが、まずは心をこめたお参りを心掛けたいものである。


お参りの済んだあとおみくじを引く人も多いと思う。しかし吉凶しか見ない人も多く、何度も引きなおす人までいる。これはよろしくない。そもそもおみくじというのは、漠然と吉凶を示すものではない。祈願したことに対する神様からの助言が書かれたものである。吉凶しか見ずに助言を見ないのでは何のためにおみくじを引いているのやら…。ましてや引きなおすなど、神様の言葉を信じずその助言を無視する無礼な振る舞いにほかならない。たとえ引きなおすことで大吉を引いたところで、そのような無礼者に神様のご加護があろうはずがない。
さらにせっかく助言いただいたのにそれを置いていってどうするのだ。「神様と縁を『結ぶ』」とひっかけておみくじを結ぶ習慣が生まれたとされているが、語呂合わせで神社に結んで帰ってしまうのと、助言を持ち帰り日々の生活の指針とするためにたびたび読み返すのと、どちらが神様との縁が深まるだろうか。みくじ掛けが置かれている寺社が多いが、これは結ぶのが正式な作法だからではなく、いくら注意しても木に結ぶ輩が後を絶たないことから、木に結ばれるよりはマシという気持ちから苦肉の策として置いているだけである。そのみくじ掛けがあるのにわざわざ木に結ぶ悪質な輩もいるのは嘆かわしい。木の枝に結びつければ木の生育に悪影響を及ぼす。いわば神様の所有物を傷つける行為である。自分の家の庭樹を荒らしているものに「今年もよろしくお願いします」などといわれてうれしいだろうか。同様におみくじを木に結びつけることに何のためらいも感じないような輩に神様のご加護があろうはずがない。
おみくじは吉凶にかかわらず持ち帰るべきである。


とりあえずはこんなところであろうか。とにかく大事なのは神仏に失礼な行為はしないことである。例えば人間の上司に対してしないようなことは神様に対してもすべきでないのは自明のことであろう。神様に失礼のない、そして周囲の人から見て見苦しくない参拝を心掛けたいものである。

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