終戦記念日
昨日は終戦記念日であった。
安倍首相の靖国参拝は成らなかったが三人の閣僚が参拝した。まぁこんなものであろうか。
首相が参拝を強行することによって他の政策すべてが足を引っ張られ、結果として国が倒れてしまっては本末転倒であろう。
しかしそうではあっても、参拝してほしかったという気持ちを抑えることはできない。
そもそも8月15日を外したところで、参拝すれば中韓は言いがかりをつけてくる。いつ行っても言いがかりをつけられるのであれば、意味のある日に参拝したほうがまだましではなかろうか。
以前にも書いたことがあったかと思うが、8月15日というのは、単なる戦没者追悼日ではない。
自称保守は「靖国神社にとって8月15日は特別な日ではないのだから例大祭に参拝するほうがよいのだ」などといって正当化しようとしているが、とんでもない思い違いである。靖国神社において特別な日でなくとも、終戦の詔書の主旨を思い起こし、誇りある日本を維持する決意を新たにする日という意味において、日本国民にとって特別な日である。そしてそれは戦没者の御霊に誓うという形で決意表明すべきものであろう。
そしてそうした決意表明をするのに最もふさわしいのはその決意のもとである終戦の詔書が流された8月15日以外あるまい。8月15日は特別な日ではないなどという輩は先帝陛下の大御心を何と心得るか。
なるほど、武道館で開かれている戦没者追悼式典にも「戦没者の霊」と書かれた標柱が設置されてはいる。しかし何をもってその標柱に戦没者の御霊がいらっしゃるといえるのだろうか。
靖国神社から分祀(特定の御霊を抜き出すという意味で使われる最近の所謂分祀ではなく本来の意味での分祀)しているというのであれば、確かに御霊に誓う場は靖国神社でなくてもかまわないということになろうが、そうした正規の手続きが行われているとは聞いたことがない。であるならば、御霊がいらっしゃるのはあくまでも靖国神社であり、武道館は御霊とは関係ないただの式典の場に過ぎないことになる。
今年の追悼式典における首相式辞は近年まれにみる立派なものであった。左がかった連中は「反省も不戦の誓いもなかった」などと酷評しているが、反省というのは戦没者の御霊に対するものではない。
反省とは「自分のよくなかった点を認めて、改めようと考えること」である。自らを正しいと信じて行動されてきた戦没者の御霊に対し、当事者でもない者が「反省」を口にするのは全くの筋違いであり、御霊に対する侮辱であり、慰霊・追悼の対極に位置する行動である。
そして、日本がどんなに平和と非戦を望んでいても、わが国の領土を不法占拠し続け、貴重な文化財を盗み出す国、我が国の領土をかすめ取ろうと虎視眈々と狙っている国、わが国の国民を拉致していく国など、侵略国家に囲まれている状況では不戦の誓いなどむしろ我が国の国民の生命・財産や国土を守るのに手足を縛るものにしかならない。国民の生命・財産をきちんと守れてこそ誇りある日本を維持できるというものだろう。不戦の誓いなどで国民の生命・財産を危険にさらしますなどと御霊にどうして申し上げることなどできようか。
つまり今年の首相式辞は、特定の外国が主役だった今までの間違った慰霊・追悼から、御霊が主役の正しい慰霊・追悼に戻した、画期的なものだったのである。そしてそうであるがゆえに、なお一層、それが御霊の前で捧げられたものでないことが悔やまれるのである。
さらに言えば、今年の8月15日に首相が参拝しなかったことは、もともとの予定であったとのことだそうだが、中韓に対して、『保守に支持の厚い安倍首相ですらゴリ押しすれば折れる』という間違った印象を与えることにはなりはしないだろうか。結果として8月15日の参拝のみならず、在任中のあらゆる参拝がつぶされるような結果にならないか心配である。そして参拝ができない状況により保守層に安倍離れが進んでくれれば中韓にとっては格好の安倍つぶしにもなる。安倍首相が失脚し、アベノミクスが失敗ということにして元のデフレ化政策に戻ることが中韓に与える経済的メリットは計り知れないだろう。首相の不参拝が中韓にとって政治的と経済的の一石二鳥ということにつながらないよう願うばかりである。
安倍首相の靖国参拝は成らなかったが三人の閣僚が参拝した。まぁこんなものであろうか。
首相が参拝を強行することによって他の政策すべてが足を引っ張られ、結果として国が倒れてしまっては本末転倒であろう。
しかしそうではあっても、参拝してほしかったという気持ちを抑えることはできない。
そもそも8月15日を外したところで、参拝すれば中韓は言いがかりをつけてくる。いつ行っても言いがかりをつけられるのであれば、意味のある日に参拝したほうがまだましではなかろうか。
以前にも書いたことがあったかと思うが、8月15日というのは、単なる戦没者追悼日ではない。
自称保守は「靖国神社にとって8月15日は特別な日ではないのだから例大祭に参拝するほうがよいのだ」などといって正当化しようとしているが、とんでもない思い違いである。靖国神社において特別な日でなくとも、終戦の詔書の主旨を思い起こし、誇りある日本を維持する決意を新たにする日という意味において、日本国民にとって特別な日である。そしてそれは戦没者の御霊に誓うという形で決意表明すべきものであろう。
そしてそうした決意表明をするのに最もふさわしいのはその決意のもとである終戦の詔書が流された8月15日以外あるまい。8月15日は特別な日ではないなどという輩は先帝陛下の大御心を何と心得るか。
なるほど、武道館で開かれている戦没者追悼式典にも「戦没者の霊」と書かれた標柱が設置されてはいる。しかし何をもってその標柱に戦没者の御霊がいらっしゃるといえるのだろうか。
靖国神社から分祀(特定の御霊を抜き出すという意味で使われる最近の所謂分祀ではなく本来の意味での分祀)しているというのであれば、確かに御霊に誓う場は靖国神社でなくてもかまわないということになろうが、そうした正規の手続きが行われているとは聞いたことがない。であるならば、御霊がいらっしゃるのはあくまでも靖国神社であり、武道館は御霊とは関係ないただの式典の場に過ぎないことになる。
今年の追悼式典における首相式辞は近年まれにみる立派なものであった。左がかった連中は「反省も不戦の誓いもなかった」などと酷評しているが、反省というのは戦没者の御霊に対するものではない。
反省とは「自分のよくなかった点を認めて、改めようと考えること」である。自らを正しいと信じて行動されてきた戦没者の御霊に対し、当事者でもない者が「反省」を口にするのは全くの筋違いであり、御霊に対する侮辱であり、慰霊・追悼の対極に位置する行動である。
そして、日本がどんなに平和と非戦を望んでいても、わが国の領土を不法占拠し続け、貴重な文化財を盗み出す国、我が国の領土をかすめ取ろうと虎視眈々と狙っている国、わが国の国民を拉致していく国など、侵略国家に囲まれている状況では不戦の誓いなどむしろ我が国の国民の生命・財産や国土を守るのに手足を縛るものにしかならない。国民の生命・財産をきちんと守れてこそ誇りある日本を維持できるというものだろう。不戦の誓いなどで国民の生命・財産を危険にさらしますなどと御霊にどうして申し上げることなどできようか。
つまり今年の首相式辞は、特定の外国が主役だった今までの間違った慰霊・追悼から、御霊が主役の正しい慰霊・追悼に戻した、画期的なものだったのである。そしてそうであるがゆえに、なお一層、それが御霊の前で捧げられたものでないことが悔やまれるのである。
さらに言えば、今年の8月15日に首相が参拝しなかったことは、もともとの予定であったとのことだそうだが、中韓に対して、『保守に支持の厚い安倍首相ですらゴリ押しすれば折れる』という間違った印象を与えることにはなりはしないだろうか。結果として8月15日の参拝のみならず、在任中のあらゆる参拝がつぶされるような結果にならないか心配である。そして参拝ができない状況により保守層に安倍離れが進んでくれれば中韓にとっては格好の安倍つぶしにもなる。安倍首相が失脚し、アベノミクスが失敗ということにして元のデフレ化政策に戻ることが中韓に与える経済的メリットは計り知れないだろう。首相の不参拝が中韓にとって政治的と経済的の一石二鳥ということにつながらないよう願うばかりである。
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