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日野光治

Author:日野光治
馬鹿と煙は高い所に登る。
しかし高い所に登らなきゃ見えない景色もある。
政治だって『庶民の目線』なんてのがもてはやされてるけど、そういう低い位置からだけしか見ていなければ道を誤る。
ということで、馬鹿は馬鹿なりに今日も好き勝手に政治放談したり山歩きをしてみたりと、気ままに生きてます。

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終戦記念日

今日の不謹慎動画。


ということで今日は終戦記念日である。
とはいっても本来は8月15日というのは終戦の日でもなければ敗戦の日でもない。終戦の日はサンフランシスコ講和条約が発効した4月28日。停戦の日とするならば降伏文書に調印した9月2日。
8月15日というのは先帝陛下がラジオを通して、国民に対して「平和な世の中を作っていこう」と呼びかけられた日である。その手段として敗戦という形を受け入れるとしただけであって、ご発言の趣旨は敗戦の事実を知らせることというよりは、新しい時代への決意表明という側面が強いように聞こえる。
つまり上記動画の、8月15日を『忌まわしい』と評する替え歌の歌詞は、先帝陛下の大御心を否定するものであり、その意味において不謹慎であろう。

しかしながら、この替え歌作者(動画の投降者ではなくて作家の吉岡平氏だっけ?)が考えたのとは別の意味において8月15日は忌まわしい日となりそうである。菅左翼政権により、平和を祈念する日が特定のアジア諸国に対する謝罪を行う日にすり替えられようとしているのだ。事実に基づかない謝罪談話を出してみたり、閣僚全員に靖国参拝の自粛を求めたり。その辺のことは繰り返して述べるまでもないことであろう。
事実に基づかない戯言によって外国に屈服する日。
事実に基づかない戯言というのは先帝陛下の求められた平和をも危うくするのではなかろうか。たとえば病気が何であるかしっかり見極めて適切な治療法を施さなければ病気が治らないばかりか、下手をすれば悪化させてしまうだろう。事実に基づかない戯言をもとにろくでもない行動をとるというのは、何の病気かを見極めることなくでたらめな治療法を施すようなもの。平和を創出するどころか平和を壊してしまうのが関の山だろう。
これを忌まわしいと評さずして何を忌まわしいというのだろう。



さて、靖國神社についてもう少し考えてみよう。
菅首相をはじめとして、「A級戦犯が祀られているから参拝しない」という声は少なからずあるらしい。そしてその声に押される形で分祀論が出されている。
この分祀論、靖国参拝推進派も反対派も誤解している部分があるうえに、靖國神社・神社本庁もその誤解に対する適切な回答をしているとはいえないように見える。私なりの解釈も相当含まれているが細かく見てみよう。

まず誤解の原因となっているのが、「246万6532柱の方々をお祀りしている」という表現である。というか靖國神社自体がこういう表現を使っている。この表現だと246万以上の戦没者の方々それぞれをお祀りしているように感じてもおかしくない。霊璽簿という、合祀された方々の名簿が存在していることもまたその誤解に拍車をかけている。
それぞれを祀っているのならばそこから特定の御霊を抜き出すこともできるだろうと考えてしまうわけである。

しかし靖國神社のご祭神って、靖國大神という神様のはず。『戦没者の御霊』をお祀りしているのではなく靖國大神という『神霊』をお祀りしているという位置づけだったはず。
で、この靖國大神というのが246万6532柱の御霊の集合体なのである。246万6532柱の戦没者の『御霊』がとけあって靖國大神という『神霊』を形作っていると言ったところであろうか。とにかく靖國神社は戦没者それぞれを祀っているわけではないのである。
もちろん遺族などが参拝に来たときに、この靖國大神は靖國大神として参拝者の前に現れるわけではなく、それぞれの戦没者の形をとって現われてくださる。しかし姿はどうあれ、参拝者の前に現れてくださるのはそれぞれの戦没者の御霊そのものではなく、あくまでも戦没者の御霊の集合体である靖國大神なのである。戦没者それぞれの御霊も靖國神社にとっては非常に重要な存在ではあるのだが、重要な存在というのと直接お祀りしているというのでは全然違う。

さて、その靖國大神の神霊の中から特定の誰かの御霊を抜き出すことができるだろうか。たとえで考えてみよう。
水のいっぱい入った水槽を思い浮かべてほしい。そこに新たに一滴の水を垂らしたとしよう。新たな一滴はすぐに元から水槽に入っていた水と混ざってしまう。その混ざってしまった水の中から『もとと同じ』一滴を取り出すことができるだろうか。確かに同じ一滴『分』の水をとりわけることはできる。しかしそれはあくまでも同じ分量というだけであって、同じ分子からなる同じ一滴ではありえないことはすぐにわかるだろう。
それと同じで、一度合祀されて靖國大神の一部になってしまった御霊を分離などできるわけがないのである。

しかし靖國神社・神社本庁は分祀論に対して「大きなロウソクから火を分けても、元のロウソクの火は残る。『分祀』しても、元の神霊は残る。元の神霊も分霊(ぶんれい)もそれぞれ全神格を有する」というような説明をしている。これは分祀という用語の説明にはなっているものの、なぜ靖國大神の神霊の中から特定の誰かの御霊を抜き出すことができないのかという部分の説明にはなっていない。これでは誤解を解くことはできない。

おそらく靖國神社・神社本庁の言っていることというのは神道の専門家としては間違っていないのだろう。しかし説明を欲している一般国民は専門家ではないのである。一般の人にわかりやすい説明をするという点において全くなってない。私を靖國神社の広報担当者として雇ってもらえるならば、今の担当者よりは一般の人にわかりやすい説明をできる自信がある。まぁ反対派はどんなに分かりやすい説明をされても理解するつもりはないだろうけどね。


ちなみに霊璽簿についてもう少し。
霊璽簿というのは、氏名、軍における所属・階級、位階、勲等などを記載した紙で、まず招魂祭によって各地で散った戦没者の御霊をこの紙に呼び寄せる。そうして呼び寄せた御霊を合祀祭によって靖國大神の一部になっていただく。招魂祭から合祀祭までの間は確かに霊璽簿にそれぞれの戦没者の御霊が宿っているわけだが、合祀が済んでしまえば御霊は霊璽簿から神座に移り、霊璽簿にはもう御霊は残っていない。合祀が済んだ後の霊璽簿は、いつ誰を合祀したのかの単なる記録でしかなくなるわけである。だから霊璽簿から特定の戦没者の名を抹消したところで、靖國神社に祀られている靖國大神には何の影響もないのである。
先ほどの水槽のたとえでいえば、混ぜた一滴がどこで採取されたものか、それをいつ混ぜたのかといった記録が霊璽簿に相当する。その記録を消したところで、混ぜたという事実は変わらない。
だから霊璽簿から名前を消せば簡単に分祀できるなどというのは勉強不足の妄言である。





今回も靖國神社に行ってきた。私の場合は8月15日に限らず、近くに行く用事があれば参拝しているのであるが、やはり8月15日というのは特別な気がする。ちょうどお盆の時期だしね。まぁ、東京のお盆は7月中頃であり、実際靖國神社のお盆である『みたままつり』も7月に行われているんだけどね。
今年は例年に比べて混雑が激しいように感じた。例年なら即日で参拝者数が発表されていたように記憶しているのだが、今年はいまだその発表を目にしていない。でも参拝者数が例年より多かったのではないかと思う。
菅左翼政権の閣僚が全員不参拝を決めて特定アジア諸国に媚を売ったにもかかわらず、一般国民の参拝者数が増えたのであれば皮肉なものである。国民意識とは逆方向に動こうとしている左翼政権には早々にお引き取り願いたいものである。
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テーマ : 靖国参拝
ジャンル : 政治・経済

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